オーガスチンとマルコの家

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聖霊降臨後第18主日 『救いを受け神の実りのため働く』

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マザー・テレサが出会った人に手渡していた名刺を想像で再現しました。裏は日本語に訳しました。



 今日は聖霊降臨後第18主日。高崎で「聖餐式」の司式・説教をしました。
聖書個所はイザヤ書5:1-7とマタイによる福音書21:33-43。
 説教では、「ぶどう園と農夫」のたとえを、当日の旧約聖書イザヤ書5章と関連づけてテーマを導きました。特に「収穫」の語句に注目し、収穫(実り)とはイエス様によって実現される「救い」であるととらえ、それをただ受け取ることをイエス様が求めていると語りました。「実り(fruit)」つながりで「マザー・テレサの名刺」の言葉にも言及しました。

    『救いを受け神の実りのため働く』
 
<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今日の福音書の箇所はマタイによる福音書21章33-43節です。
 先週の「二人の息子」のたとえに続き、イエス様はエルサレム神殿の境内で、祭司長や民の長老といった当時のイスラエルの指導者たちに対して、この「ぶどう園と農夫」のたとえを語っています。
 
 今日の福音書の箇所を振り返ってみましょう。
『ぶどう園の所有者であるぶどう園の主人が、ぶどう園に必要なすべての施設や設備を整えて、これを農夫に貸し、旅に出かけました。収穫の時が来たので、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送りました。
 しかし、農夫たちは、この僕たちを捕まえて、殺してしまい、さらに、ぶどう園の主人は、ほかの僕たちを、前よりも大勢送りましたが、農夫たちは、また同じ目に遭わせて殺してしまいました。
 そこで最後に、この主人は「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言って、自分の息子を送りました。ところが、この農夫たちは、「これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。」と言って、その主人の息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して、殺してしまいました。
 このたとえを聞いていた祭司長や民の長老たちに、イエス様は、尋ねました。
「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」と。
 すると彼らは、「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」と、答えました。
 そしてイエス様は、詩編の118編22節から引用して、このように語られました。
 「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。
  これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」
  「隅の親石」とは建物を建てる時に土台となる石です。捨てられた石が、別の家を建てる時に用いられ「隅の親石」という大事な役割が与えられることもあるというのです。「それは主がなさったこと」。人間の知恵では計ることのできない驚くべきことが起こると、神様を讃えています。そして、「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」と言われました。』
  
 このたとえにおける、「ぶどう園の主人」とは神様、「ぶどう園」とはイスラエル、さらには「神の国」を意味すると考えられます。「農夫」と訳されたギリシャ語のもともとの意味は「農業労働者」ですが、転じて「小作人」を意味するようになったようです。最近の聖書協会共同訳では、別訳に「小作人」とあります。この農夫、すなわち小作人ですが、それはイスラエルの指導者たちのことを指しています。また、「主人が送り込んだ僕たち」とは、預言者たち、すなわち旧約聖書に出てくるエリヤとか、イザヤとか、エレミヤなどの預言者たちを指しています。そして、「最後に送られた息子」とは、イエス様のことを指しています。さらに、「捨てられた石が隅の親石となる」とは、受難と死を経て、イエス様は復活し、「新しいイスラエルである教会の土台となる」ということが、予言されています。

 この「たとえ」を通して、イエス様は、私たちに何を示し、どうすることを求めておられるのでしょうか? 
 そのためには、先ほど読んでいただきました本日の旧約聖書イザヤ書5章が参考になります。ここの1節から7節は、「ぶどう畑の歌」と題がつけられた預言者イザヤの歌です。これは、イエス様がお生まれになる約700年前に活躍した預言者イザヤが預言した言葉です。このような内容です。
『神様が言われます。私は、日当たりが良く、よく肥えた丘に、ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。そのぶどう畑の真ん中に、見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。私が、ぶどう畑のためになすべきことはみんなした。私は、良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。私が、このぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、私は、このぶどう畑を見捨てる。』
 これはイスラエルの不実を嘆く神様の歌です。ここでは神様の期待を裏切って勝手気ままに振る舞うイスラエルの指導者たちが批判されていると考えられます。

 本日の福音書においても、神様から送られた預言者たちの声に耳を傾けない農夫にたとえられたイスラエルの指導者たちが批判されています。しかし、福音書にはそれだけでない神様の深い思いが隠されているように思われます。マタイ21:34にこうあります。
「さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。」
 ここの「収穫]と訳されたギリシャ語は「カルポス」。ギリシャ語辞典では「実・果実・実り・収穫」とありました。ここでは「実り」がふさわしいと思います。「収穫を受け取るため」を原文から直訳すると「彼の実りを取るため」となり、主人である「神様の実りを取るため」という意味になります。英語の聖書(NIV)でも「収穫」はhis fruit(彼の実り)でした。「彼の実り」・「神様の実り」とは何でしょうか? それは神様の息子であるイエス様によって実現される「救い」だと思います。イエス様の受難と復活を経て私たちに与えられる「救い」です。
 それを受け取ってほしいと神様は願っておられるです。この「たとえ」を通して、イエス様は、私たちにそのことを示そうとしておられるのだと思います。

  「実り」、英語で「fruit」という単語で思い浮かべる言葉があります。それは受付に置きました「マザー・テレサの名刺」の言葉です。

 これは私が想像で作ったものですが、マザー・テレサは出会う人にこのような名刺を手渡していたそうです(和文の訳を裏に示しました)。日本語で読みます。
『沈黙の実りは祈り 祈りの実りは信仰 信仰の実りは愛 愛の実りは奉仕  奉仕の実りは平和』
「沈黙の実りは祈り」で始まり「沈黙→祈り→信仰→愛→奉仕→平和」という順序で「実り」が示されています。一番最初の実りが「祈り」で最後の実りが「平和(平安)」となっています。まずすべきことは祈り、それが信仰・愛・奉仕と実を結び、最終的には平和(平安)をもたらす。それらはイエス様の「救い」によって実現されるものであり、それをただ感謝して受けることが私たちに求められていると考えます。
 
 今日の福音書に戻れば、私たち一人一人も小作人だと思います。つまり、神様から全てを借りているのです。だから私たちは神様の小作人として働きます。そして実りは「神の実り」ですから当然神様にお返しするのであって、自分のものにするのではありません。私たちは、自分のためではなくて、神様のために働くのです。あるいは、神様の実りになることを目的に、私たちは働くのであります。

 「古いイスラエル」に代わって、「新しいイスラエル」が建てられました。それは主の家族である教会です。この教会こそ、世界に広がる「隅の親石」です。その教会を神様が恵みを持って守り導き、そして、私たち一人一人が神様の実りのために日々、神様の小作人として働くことができるよう祈り求めたいと思います。