オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

「唱歌・童謡とキリスト教(3)」

    前回、童謡の誕生、そしてキリスト教との関連について少し記しましたが、日本人にとって最も愛されている童謡は何だと思いますか? かつて、NHKが行ったアンケート「明日へ残す心の歌百選」(回答数66万通)で一位に選ばれたのが、「赤とんぼ」、2位が「ふるさと」だったそうです。
 「赤とんぼ」の作詞は三木露風、作曲は山田耕筰です。山田耕筰NHK連続テレビ小説「エール」で志村けんが演じた小山田耕三のモデルとなった人物です。三木露風山田耕筰キリスト者でした。
 今回は童謡「赤とんぼ」にスポットを当てて、キリスト教との関係について思い巡らしたいと思います。
 竹内喜久雄著「唱歌・童謡100の真実」を参考にしました。

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 この本の「赤とんぼ」の項目等にこうありました。
 『赤とんぼ』の詞は、露風が32歳(1921年)のときに作られた。露風は1889(明治22)年、兵庫県の裕福な家に生まれたが、露風が6歳のときに両親が離婚。露風は一人、祖父に預けられて育つ。中学を中退後、上京し、早稲田大学慶応義塾大学で学び、1921(大正10)年、北海道函館の「トラピスト修道院」に招へいされ文学の講師として着任した。露風は敷地内で妻と共に暮らした。彼は当時、既に「廃園」などの作品で、北原白秋らと共に詩人として活躍していた。その年、露風は修道院の庭に飛ぶトンボの群れを見て、「赤とんぼ」の詞を書き、童謡雑誌「樫の実」に発表。翌年の1922(大正11)年、トラピスト修道院で洗礼を受け、露風と夫人はそれぞれパウロとモニカという洗礼名を受けている。
「赤とんぼ」の詩はこうである。 
 1 夕焼小焼の 赤とんぼ
   負われて見たのは いつの日か
 2 山の畑の 桑の実を
   小かごに摘んだは まぼろし
 3 十五でねえやは 嫁にゆき
   お里のたよりも 絶えはてた
 4 夕焼小焼の 赤とんぼ
   とまっているよ 竿の先

 露風自身の回想によると、彼が幼少のころ、母のいない家の女中役の「ねえや」におんぶされて見たであろう赤とんぼの舞う夕空をうたったと言われている。山の畑の桑の実を摘んだのは、実家のあった兵庫県龍野でのこと。その後、ねえやは女中をやめ、里に帰り、嫁いでいった由。自分を生んでくれた母とも、育ててくれた「ねえや」とも離別してしまったことへの愛惜の念もこの歌には込められている。また、4節は、露風が12歳のときに作った俳句である。その時の露風は、独り取り残された自分と、ぽつんと竿の先に止まっている赤とんぼとを重ねたのであろう。』

 こうありました。しかし、露風が洗礼を受ける直前にこの詞を書いていることを考えると、特に4節の「とまっているよ 竿の先」はキリストを信じ、本来の止まる場所が与えられ慰めを得た彼の心を表わしているのではないでしょうか? それは上から見ると、十字架(ロシア十字架)のような形です。「赤とんぼ」が羽を広げてとまっている様子は、十字架とイエス・キリストの赤い血潮を連想させます。4節は、主の十字架によって魂の平安を得たことを表しているのではないでしょうか?

 私は、この主の十字架を仰ぎ誇ることを歌った讃美歌142(古今聖歌77)「さかえの主イエスの」を思い浮かべました。
 この讃美歌の1節と2節はこうです。
 1 栄えの主イェスの 十字架を仰げば
   世の富 誉れは 塵にぞ等しき
 2 十字架の他には 誇りはあらざれ
   この世のものみな 消えなば消え去れ
 原詩である英語の1節はこうです。なお、この聖歌はウイリアムス主教の愛唱歌でした。
 1 When I survey the wondrous cross, On which the Prince of Glory
   died,
   My richest gain I count but loss, And pour contempt on all my
   pride.
 意訳してみます。
 1 神の御子が死に渡された栄光である十字架に至るとき、 私にとって最も富んでいたものはもはやそうでなくなり、 私がこれまで誇っていたものを軽蔑します。
 露風も洗礼によって新たに生まれ、価値観が転換されることを実感していたのではないでしょうか?  

 その後、三木露風は、信仰に基づく詩集のほかに、随筆『修道院生活』や『日本カトリック教史』などを著し、バチカンからキリスト教聖騎士の称号を授与されています。修道院での露風は、夕焼けの中を飛ぶ赤とんぼを見て、主イエス・キリストの十字架によって救われる恵みをおぼえ、魂の平安を得て作詞したのだと考えます。
 なお、「赤とんぼ」を作曲した山田耕筰は、1886(明治19)年、東京市本郷でキリスト者の家庭に生まれ、父は医師でありキリスト教伝道者でした。10歳の時父は死去、この父の遺言で巣鴨宮下(現南大塚)の自営館(日本基督教会牧師田村直臣が始めた施設、現日本基督教団巣鴨教会)に入り13歳までこの施設で過ごし、洗礼を受けました。13歳の時、岡山に住む姉ガントレット恒を頼って養忠学校(岡山県立高等学校)に入学しました。そして姉の夫である英国人エドワード・ガントレットから音楽の手ほどきを受け、英語で讃美歌を覚え、歌っていました。14歳になって関西学院中学部へ転校し、その後、東京音楽学校(現東京藝術大学)で学び、卒業しました。この経歴から、彼の曲に賛美歌の影響が濃いのは当然であると言えます。
 私は、そんな二人の生み出した童謡「赤とんぼ」は、神への祈りを込めた聖歌・讃美歌であると考えます。

* これまで3回の「唱歌・童謡とキリスト教」について、このDVD「永遠のふるさと~唱歌・童謡から讃美歌へ~」から多くの情報を得ました。これは福音歌手の森祐理をナビゲーターとして、唱歌・童謡と讃美歌との深い関係が明らかにされるドキュメンタリーです。

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