オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

「上毛かるたとキリスト教(2)」

 前回のこのタイトルのブログでは、上毛かるたの選考委員だった須田清基牧師が宣教の意図で新島襄内村鑑三という2人のキリスト者をかるたに採用させたのではないか、ということ等について述べました。そのことを裏付けるような資料が手に入りました。その一つが2010年に発行された「新島学園短期大学紀要第30号」の中の論文『須田清基-「上毛かるた」への貢献(山下智子)』です。先日、「上毛かるたキリスト教の関係について調べている」と新島短大にお話ししましたら、その紀要を寄贈してくださいました。この論文で、上毛かるたにおける須田清基の果たした役割がどれだけ大きなものであるかがよく分かりました。特に須田清基が上毛かるたの「原案者」だったこと、伝道者としてキリストの教えを伝えると同時に2人の偉大なキリスト者について伝えることが戦後の混乱期にあった子供たちが希望を持ち将来の日本社会の担い手として成長していく上で必要だと考えていたこと、を知ることができたのは有意義でした。
 この論文には、1947(昭和22)年4月14日の第1回選考委員会で一般からの応募資料272点のうち、人物に関する応募資料で新島襄が最多の11点であったと記されていました。そのことについて具体的なことが記されていたのは「上毛かるたの生みの親」とされる浦野匡彦の長女である西方恭子の著書『上毛かるたのこころ-浦野匡彦の半生-』でした。

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 この本の「上毛かるた制作過程」には第1回選考委員会における応募点数や応募句などが記されており、その人物の欄では新島襄が11点で最も多く、結果的にかるたに採用されなかった高山彦九郎が9点、国定忠治が8点あったことも示されていました。ちなみに、内村鑑三は1点のみでした。この時は占領下であり、皇国史観高山彦九郎や任侠の国定忠治等はGHQの意向もあり見送られたようです。この本には軍用ジープが事務所前に横付けになり、GIが入ってきたこと等が記されています。また、浦野匡彦が高山彦九郎国定忠治等のかるたに読み込めなかった人々を、「雷と空風、義理人情」という上州の気象及び上州人気質に託して表現したことも記されています。
 上毛かるたに採用された人物9人のうち2人がキリスト者であり、特に応募点数1点だけだった内村鑑三が採用されたのは、須田清基の働きが大きいことはもちろんですが、選考委員会が多数決では表せない大切なものがあると考えたからと思います。

 私は8月30日の聖餐式における説教で絵札「心の灯台 内村鑑三」について考察しました。今回は「平和の使徒 新島襄」について思い巡らしたいと思います。
  「平和の使徒 新島襄」は使徒を「つかい」と読ませていますが、そのことについては前々回のブログで紹介した群馬県が出した『「上毛かるた」で見つける群馬のすがた』の本に『「上毛かるた」では宗教とは関係なく子供たちになじみやすく覚えてもらうために「つかい」と振り仮名を付けキリスト教教育者として読み込みました』とありました。
 さて、それではなぜ新島襄が「平和の使徒(つかい)」と読まれたのか、前述した新島学園短期大学准教授(当時)の山下智子が編集した「群馬のキリスト者たち」の「まえがき」にこう書かれています。

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『平和という言葉は、一般的には戦争がないことを指して用いられることが多いようです。しかしキリスト教でいう平和はもう少し広い意味を持っています。戦争がないことはもちろんですが、災害や事故、社会の仕組みなどにより悲しみ苦しむ人がなく、すべての人が助け合い、生き生きとそれぞれの命を輝かせるような平和な世界を指しています。須田清基は、新島襄プロテスタントキリスト教を群馬にもたらしたことにより、このキリスト教的な平和理解が群馬に広まった、と考えていました。それで新島襄を「平和の使徒」と表したのです。』
 私は基本的にこの考えに同意しますが、さらに以下のように考察しました。

 聖書は旧約がヘブライ語、新約がギリシャ語で記されていますが、「平和」という言葉のヘブライ語は「シャローム」、ギリシャ語は「エイレーネー」という言葉であり、前者には平和・平安・繁栄・健康・和解といった意味があり、後者には平和・平安・安心・安全・無事というような意味があります。「平和」という日本語の意味からすると、大きく広い意味になります。言い換えると、これは人間生活のすべての恵みのことであると言えます。そして、ローマの信徒への手紙15章 33節に「平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。」とありますように、それは神からの賜物です。
 また、「使徒」はギリシャ語ではアポストロスで「派遣者(遣わされた者)」という意味です。12使徒と言い、一般にはイエス様の12人の弟子とパウロ使徒とされていますが、もっと広く、復活のキリストから直接に委任された者も実質的に使徒たることが認められていました。復活したイエス様が弟子たちに現れ、「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(ヨハネによる福音書20章 21節)とおっしゃったように、平和を願うイエス様が使徒を遣わすのであります。
 「平和の使徒」と言ったとき、「神の恵みを示すためイエス様により派遣された者」といったイメージがあります。ですから「平和の使徒 新島襄」という札は、「同志社という著名な学校を創立し優秀な人材を輩出した新島襄」というよりも「人々に神の恵みを示すためにイエス様によって派遣された新島襄」という意味なのだと私は思います。伝道師であり牧師である須田清基はこのような思いで、「平和の使徒 新島襄」と読んだと推察します。
 しかし、それはなかなか最初理解されず、しかし、年を経るに従い、心ある人には察知されたように思います。それはこのかるたの新旧の絵札を見ると感じます。

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 左が1947(昭和22)年の初版で右が現行の絵札です。描いたのは画家の小見辰夫で、彼の要望により1968(昭和43)年に上毛かるた全絵札が描きかえられました。
 初版の絵札には、同志社と思われる校舎が描かれ著名な学校の創立者という雰囲気です。描きかえられた絵札には校舎はなくなり、人物の精神性が深まり神から派遣された者という印象が感じられます。上毛かるたが誕生し、20年を経て、画家の小見辰夫は札の言葉の理解が深まったように思います。
  「平和の使徒 新島襄」の意味は「人々に神の恵みを示すためにイエス様によって派遣された新島襄」と考えます。平和は神様がくださる恵み(賜物)です。その神様を信じる人が、このかるたを通して1人でも増えるよう願ってやみません。