オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

降臨節第4主日 聖餐式 『マリアの信仰に倣う』

 本日は降臨節第4主日。高崎の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所はロー
マの信徒への手紙16:25-27とルカによる福音書1:26-38。説教では、ルカ福音書の受胎告知の場面において、マリアの当惑から受諾に至ることができた訳にスポットを当て、私たちに問われていること等について述べました。フラ・アンジェリコの絵画で描かれている瞬間の場面にも言及しました。

      『マリアの信仰に倣う』

 <説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は、降臨節第4主日降臨節最後の主日です。アドベント・クランツのロウソクも4本点りました。今週の金曜はいよいよ降誕日、クリスマスです。
 本日の聖書日課についてですが、クリスマス直前の主日には、主イエス様の降誕直前の物語が選ばれています。今年、B年は、福音書はルカ福音書第1章で、天使ガブリエルによるマリアへの受胎告知の物語で、ダビデ王座の授与とその永遠の支配が語られます。使徒書はロマ書第16章であり、代々に渡って隠されていた秘儀であるイエス・キリストの福音が、イスラエルだけでなく万人のために啓示されたことが記されています。
 

  今日の福音書箇所を振り返ります。
ガリラヤ地方のナザレという町に、マリアというおとめが住んでいました。ヨセフという人のいいなずけでした。天使ガブリエルが現れてマリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と告げ、マリアは戸惑い、考え込みます。天使はさらに「あなたは聖霊によって身ごもり、男の子を産むでしょう」と伝えると、マリアは「どうして、そんなことがありえましょうか。」と言いました。しかし、「神にできないことは何一つない。」と言われ、その例として「老年の親類エリサベトも身ごもっている」ことを示されました。マリアは、「わたしは主の仕え女(これまでの訳は「はしため」、英語ではservant)です。お言葉どおりこの身になりますように」と言って、このことを受け入れました。』
 この箇所は「受胎告知」としてフラ・アンジェリコやダ・ビンチやエル・グレコ等多くの画家が描いています。これはフラ・アンジェリコの「受胎告知」です。

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 今日の箇所は天使ガブリエルとマリアの対話で進行し、驚き戸惑うマリアが神様のお告げを受諾するまでの心の動きが描かれています。

 少し詳しく見ていきます。
 28節と30節の冒頭の天使ガブリエルの言葉をつなげると「おめでとう、マリア」となりますが、この言葉はラテン語では「アヴェ・マリア」です。「アヴェ」は「おめでとう(直訳では「喜べ」)」という意味ですが、一般的なあいさつ(こんにちは等)の言葉としても用いられていました。この言葉に対してマリアは、29節で「これは一体何の挨拶かと考え込んだ。」とあります。ここの「何の挨拶か」は希求法(希望や願望、あるいは可能性を述べるときの動詞形)であり、「考え込んだ」は原文では動作の継続を表す未完了形で書かれています。そうしますと、マリアはただ困惑や疑惑だけではなく、わずかかもしれませんが「希望を持ちながら、ずっと考え込んでいた」と考えられます。
 そのような状況で、天使から「あなたは身ごもって男の子を産む。」と告げられ、マリアは「どうして、そんなことがありえましょうか。」と言いました。それに対して天使は「聖霊によって身ごもること」や「不妊と言われた高齢の親類エリサベトも子を宿していること」などを告げます。聖書には書いてありませんが、もっといろいろな対話(やりとり)があったと思います。そのしばらくの対話の後、38節でマリアは「わたしは主の仕え女です。お言葉通りこの身になりますように。」と言って、神様のお告げを受諾したのでした。フラ・アンジェリコの先ほどの「受胎告知」の絵はこの瞬間の場面であると考えられます。

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 マリアは胸の前で手を交差して、神様の思いを受け止めている様子が見て取れます。
 さて、「お言葉通りこの身になりますように。」を原語から直訳しますと「あなたの言葉に従って私になりますように」であり、「なりますように」は希求法で、願望を表しています。かつての文語訳では「成れかし」でした。「なりますように」はラテン語では「フィアットfiat」と訳され、ある英語訳(NRSV等)では「Let it be」と訳されて、多くの人に親しまれてきた言葉です。「Let it be」はビートルズの曲によって世界中に広まりました。「主の祈り」の中の「み心が天に行われるとおり地にも行なわれますように」の「行われますように」も同じ言葉です。「なりますように(fiat、Let it be)」とは「御心がおこなわれますように(神様の思いが実現しますように)」ということです。マリアも天使の言葉の通り、神様の思いが自分の身に実現することを願ったのです。

 では、マリアが「どうして、そんなことが」という当惑から「この身になりますように」という受諾に至ることができたのはなぜでしょうか? 
 一つには、天使の最初の言葉「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」とあるように、「主なる神が共におられる」と約束していることがあると考えます。「神が私たちと共におられる」のヘブライ語が「インマヌエル」であり、これはイエス様の別の呼び名です。先ほどの入堂聖歌65番で「イマヌエル来ます み民よ喜べ」と折り返し歌いましたが、その「イマヌエル」がイエス様のことであり「神が私たちと共におられる」という約束なのです。マリアはこのことを信じたのであります。
 もう一つは、天使のお告げが一方的でなく、マリアと対話し、マリアは疑問点や率直な思いを投げかけ、天使はそれに誠実に応え神様の思いを伝え、何度かのやりとりがあったことが挙げられます。そのような天使(神の御使い)との対話を経て、マリアは受諾したのだと思います。その基には、マリアの信仰があったと考えられます。
 神が共にいることを信じ、神の御使い(さらに、神)と継続的に対話する。このことからマリアは「信仰者の模範」と言えると思います。

 私たちも、人生において「どうして、そんなことが」と思うときがあったのではないでしょうか? また、これからも「なぜ私にこのようなことが起きるのか」と当惑することがあるかもしれません。そのようなときに「神が共におられる」ことを信じ、継続的に神と対話する、つまり「祈り続けることができるか」が問われているように思います。

 皆さん、私たちの人生では「なぜ私に」と予期せぬ出来事が起こり、当惑することがあります。しかし、その時、神様は「私たちと共におられる」ことを告げ、私たちと対話する用意をされているのです。「主が共にいる」ことを信じ、継続的に神と対話する、つまり祈り続けることが私たちに求められているのではないでしょうか?
 イエス様の誕生に際して、「御心がおこなわれますように」というマリアの信仰があったことを心に留め、その信仰の模範に倣いつつ、降誕日、クリスマスを迎えることができるよう祈り求めたいと思います。