オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

大斎節第1主日聖餐式 『荒れ野で支えてくださる神』

 本日は大斎節第1主日。高崎の教会で聖餐式を捧げました。礼拝後、堅信受領者総会があり、報告や予算案等が承認されました。礼拝の聖書箇所は、ペトロの手紙一 3:18-22とマルコによる福音書 1:9-13 。説教では、大斎節の始まりに当たり、荒れ野で神が支えてくださることを理解し、イエス様を模範とし、祈りを捧げ、信仰を持ち続けていくよう祈り求めました。私自身の大斎節の目標や具体策、眞野司祭作成の「レント・カレンダー」の活用法にも言及しました。

   『荒れ野で支えてくださる神』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今日は教会暦では大斎節第一主日です。大斎節はカトリックでは四旬節、英語ではレントといいます。大斎節とは何でしょう? 大斎節というのは、灰の水曜日(今年は先週の水曜日、2月17日)から復活日までの40日間(プラスその間の主日の数、実際は46日間)を言います。四旬節という言い方は40日間のことを意味します。大斎始日の礼拝でも少しお話ししましたが、大斎節は、イエス様の「荒れ野での試練」に倣い、節制(欲を抑えて慎むこと)と克己(己に克つこと)に努め、自分を見つめ直すという悔い改めと反省の期間という意味があります。
 受付に今年の「レント・カレンダー」と呼ばれるものを置きました。これは中部教区の眞野玄範司祭さんが作成されたものです。

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 これを見ても分かるとおり、復活日(今年は4月4日)の前日の聖土曜日までがレントで、大斎節はイースター(復活日)を迎える準備の時という意味合いがあります。

 大斎節第一主日では、毎年イエス様の荒れ野での試練、一般に「荒れ野の誘惑」と呼ばれる福音書の箇所が取られています。マタイやルカは誘惑の内容まで詳しく伝えますが、マルコはいたって簡潔にこの場面を記しています。
 今日の福音書の内容は、2つの部分からなっています。聖書協会共同訳聖書の小見出しは「イエス、洗礼を受ける」と「試みを受ける」となっています。本日は大斎節第一主日ですので後半について考えていきたいと思います。
 
 この箇所はこう述べられています。
「それからすぐに、霊はイエスを荒れ野に追いやった。 イエスは四十日間荒れ野にいて、サタンの試みを受け、また、野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた。」
 「荒れ野」というのは、聖書の中で特別な場所です。試練の場所であり、誘惑の場所であり、しかし、そこは神様と出会う特別な場所です。「それからすぐに、霊はイエスを荒れ野に追いやった。」とあります。「追いやった」という言葉は、 この前の新共同訳では「送りだした」と訳されていましたが、原語のギリシャ語では「追い出す」とか「投げ込んだ」とか、そういう強い力を表す言葉で、今回の聖書協会共同訳はかなり原文に忠実に訳しています。そのとき、霊はイエス様を、試練の場、誘惑の場、しかし、神様との出会いの場に投げ込んだのです。
 霊は、洗礼の時イエス様に降り、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者である」と宣言された霊です。それは、三位一体の第三位格である「聖霊」です。父なる神様からイエス様に降ってこられたその霊が、今度はイエス様を「荒れ野」に追いやったのです。
 ここでは「試みを受ける」(原語のギリシャ語ではペイラゾー)という言葉に注目します。これは「ペイラスモス」の動詞形です。それをギリシャ語辞典で引くと「試み・誘惑・試練」とありました。同じ言葉がサタンから見れば「誘惑」であり、イエス様から見れば「試練」となります。「誘惑」は神様から離すことであり、「試練」は神様に近づくことです。それが同じ言葉なのです。どちらから見るかで意味が変わるのです。
 
 荒れ野は神的な力と悪魔的な力とが共存する場所であり、その意味で私たちが生きる日常の象徴とも言えます。イエス様が荒れ野で試みを受けたのは、同じ「荒れ野」に生きる私たちを励まし、慰めるためです。イエス様と共に「荒れ野」を生きるとき、試みは神様への信仰を告白する試練に変わります。 
 ちなみに、かつての「主の祈り」の文語訳は「われらを試みにあわせず」となっており、新共同訳のマタイ6章13節でも「わたしたちを誘惑に遭(あ)わせず」と訳されています。しかし、試みや誘惑は必ずあるものなので、「試みや誘惑にあわせないでください」と祈ることはどうなのかと考えます。現行の「主の祈り」では「わたしたちを誘惑に陥らせず」となっていて、「誘惑があってもそこに陥ることのないように守ってください」の意味と理解します。この方が、今日の箇所のイメージにつながると考えます。
  「また、野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた。」とありますが、どういうことなのでしょう?
 イエス様の荒れ野での生活は野獣と隣り合わせであり、同時に神の使いとともに過ごす日々だったのです。野獣とともに、天使とともに生きる。イエス様が試みに直面した場とはそのような場でした。しかも天使たちが仕えていた。つまり神の霊の働きはイエス様を支え続けていたのです。これは私たちの生きる場でも同様であります。
 
 冒頭お話しましたように、大斎節は、イエス様の「荒れ野での試練」に倣い、節制と克己に努め、自分を見つめ直すという意味があります。そして、大斎節には、何か目標を決め自分にとって少しきつい試練を与えることをよくします。毎日聖書を読むとか、普段なかなか読めない神学書を精読するとか、誰かを覚えて祈り手紙やメールを送るとか、等です。私は、今年は「祈りを深める」ことを目標に、これらの本を精読することにしました。

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 O・ハレスビーの「祈りの世界」や古今東西の祈りを集めた「祈りのポシェット」です。前者は以前は「祈り」と題されていた本で、私が信仰に入った頃、今から40年ほど前に購入し、最初だけ読んで本棚にしまっていたものです。ハレスビーはノルウェー神学者で「祈り」は英文から訳されたものですが、「祈りの世界」はノルウェー語からの直訳です。この2つを読み比べることで、この本を精読したいと考えました。そして、祈りの実践例として「祈りのポシェット」を丁寧に読みたいと思います。
 説教の冒頭で紹介したレント・カレンダーにはいろいろな活用法がありますが、私は、目標と具体策を記入し、これらの本を精読できたときに色鉛筆で塗るようにしました。

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 皆さんも、この大斎節に何か目標と具体策を決め、実践し、レント・カレンダーでチェックしてみてはいかがでしょうか?

 皆さん、私たちの人生は荒れ野のようです。いろいろな誘惑や試練があります。そこでも神様が支えてくださいますから、主イエス様にならい主の栄光を現すことができるよう、祈りを献げたいと願います。
  大斎節の始まりに当たり、これからイースターまでの約40日間、あらためて自分を見つめ直し、節制と克己に努め、信仰を持ち続けることができるよう祈り求めて参りたいと思います。

 

 

大斎始日(灰の水曜日)の礼拝 『隠れた神と心を合わせる』

 本日から大斎節です。高崎の教会で「大斎始日(灰の水曜日)の礼拝」を捧げました。悔い改めのしるしとして額に灰の十字架のしるしを受けました。

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 礼拝の聖書箇所は、ヨエル書2章1節以下とマタイによる福音書6章1節以下。説教では、「灰の水曜日」の由来や大斎節に善行や断食等を行う意味、額に灰の十字架を記す意味等について語りました。

   『隠れた神と心を合わせる』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今日は大斎始日です。大斎節の始まりの日です。そして、「灰の水曜日」とも言われる祝日・斎日です。年間で2つある断食日(もう1つは受苦日)です。古くは大斎節の始まる日、信徒は罪を悔いたしるしとして粗布をまとい、灰をかぶる習慣がありました。それが「灰の」水曜日の由来です。

  この礼拝式文の最初の「勧め」にもありますように、初代教会では、この期間はその年の復活日に洗礼を受ける人や教会の交わりに回復される予定の人々によって守られてきました。そして、森紀旦主教様が書かれた「主日の御言葉」によりますと、「8世紀から10世紀にかけてこの40日間を、洗礼志願者のみでなく全会衆が大斎節として守ることとなり、悲しみと悔い改めを表すため、初めの日に、前年のしゅろの主日(復活前主日)に渡されたしゅろを燃やした灰を、聖職と信徒の額に付ける習慣ができ(P.108)」たようです。
  大斎節は信仰の業に励むように心がけます。主イエス様の生涯とその苦難に思いを馳せ、自らを省みながら、深い祈りの時を持ちます。節制によって手許に残ったお金を特別な献金(大斎克己献金)として捧げ、教会や、その他助けの必要な人々のために用います。
 
 先ほどお読みしました福音書箇所は、マタイによる福音書の6章からで、「善行、施し、祈り、断食は父なる神にのみ知られるように」との箇所です。旧約聖書はヨエル書2章からで「断食をして主に立ち帰れ」と述べています。なお、この13節が今年の大斎節の聖句として選ばれています。

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 本日の福音書はマタイ福音書6章1節以下で、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」というイエス様の教えです。イエス様は、人の「偽善」を咎めています。3節で「施しをするときは、右の手のしていることを左の手に知らせてはならない。」とイエス様は教えています。  
 ここでは、当時のユダヤ人にとって宗教的な3つの行い、施しと祈りと断食が大事であることが述べられていますが、大斎節の始まりにあたってこのことを意識することは大切であると思います。イエス様がこの3つをする時に、「隠れて行いなさい」とおっしゃる。施しも祈りも断食も、「隠れてしなさい」とイエス様は強くおっしゃっておられます。
 なぜ、隠れてしなければならないのでしょうか? それは、神様自身の働きが隠れておられるからと言えます。神様も私たちのために働いておられ、神様も私たちのために祈っておられ、私たちのために犠牲をささげられたのです。神様自身がそれらを隠れた形で行われた。だから私たちもその神様に倣って、隠れて施しや祈りや断食をするということなのです。私たちが隠れている神様の心に合わせて、施しや祈りや断食をする。つまり、神様と心を合わせて行うことに意味があると言えます。それこそが、「富を天に積むこと」になるのだと考えます。

 ところで、本日の礼拝では、この後の嘆願に続いて、一人一人の額に棕櫚を燃やした灰で十字架のしるしを刻みます。どうして額に灰の十字架のしるしをするのでしょうか? 十字架のしるしをするときの言葉はこうです。
「あなたはちりだから、ちりに帰らなければならないことを覚えなさい。罪を離れてキリストに忠誠を尽くしなさい」
 この前半の「あなたはちりだから、ちりに帰らなければならないことを覚えなさい。」は、「エデンの園の木の果実」を取って食べたアダムとエバに言われた神様のみ言葉(創世記3:19)です。アダムとエバが「エデンの木の果実」を取って食べたことは蛇の誘惑のせいでした。しかしこの蛇の誘惑は人間の欲望を引き出しています。すなわち、人間が自分の欲望を満たすために神様のみ言葉に背いたのです。私たちもこのアダムとエバの遺伝子を受け継いでいます。私たちはちりにすぎないのです。そして、私たちはみな、どんなに長生きしようとも、いつかは必ずちりに帰らなければなりません。この世の命は有限であること、そして自分が死せる存在であることを直視することが、神様と向き合うための始めの一歩です。「私たちはちりにすぎず、必ずちりに帰らなければならない存在である。だからこそ神に立ち帰り、キリストに従うことが大切なのである。」このことを体に、心に刻むために額に灰の十字架のしるしをするのだと考えます。 

 さらに、大斎節は、イエス様が荒れ野で40日間、断食し祈られたことをおぼえます。イエス様はなぜ荒れ野に行き、断食されたのでしょうか? 荒れ野は、水もなくて食べ物もありません。昼は暑く、夜は寒い所です。イエス様はそういう所で人間としての限界を感じられたことでしょう。そして「人間は、ちりであるから、ちりに帰らなければならない」ということを悟ったでしょう。神様がそのことを知らせるためイエス様を荒れ野で断食をさせたのだと思います。淡々とした日常生活を続けるだけでは、このような悟りを得ることは難しいでしょう。そうであれば、私たちもこのような悟りのために、荒れ野に行かなければならないのでしょうか? そのようなことができれば、それが一番良いでしょう。しかし、誰でもそのようにはできません。そこで初代教会は日常生活を続けながら荒れ野を体験することができる方法を用意しました。それがまさに断食と節制、祈りと善行です。
 善行とは、貧しい人への施しを指します。祈るときは、「奥の部屋に入って戸を閉め」なさいとイエス様はおっしゃっています。ユダヤ人は通常、神殿や会堂で立って手を挙げ、人前で祈っていました。しかし、人に見られるために祈るのは間違っていると、イエス様は言っておられるのです。断食については、ご自分の健康の状況等によって実践してほしいと思います。

 皆さん、イエス様は「善行と祈りと断食を形式的にしてはいけない、他人に見せるためにしてはいけない」と命じておられます。私たちキリスト者・信仰者の人生は他人に見せるためにあるのではありません。私たちが善行と祈りと断食などの行いを、隠れた神様と心を合わせてすることに本当の意味があるのです。
 この大斎節で何かをする時に、神様と心を合わせて何をするのがいいか考えて、それを隠れている神様と共に、この40日間(正確には主日を含めた46日間)、行っていけると素晴らしいと思います。この大斎節を神様のみ心にかなうように過ごしていくことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。

 

大斎節前主日 『イエスに聞き栄光の姿へ』

 本日は大斎節前主日。新町の教会で聖餐式を捧げました(高崎は「み言葉の
礼拝」)。新町は礼拝後、堅信受領者総会があり、報告や予算案等、すべて承認されました。礼拝の聖書箇所は、ペトロの手紙二  1:16-19とマルコによる福音書 9:2-9。説教では、「変容貌(キリストの変容)」の箇所から、当日の特祷に基づきテーマを考え、イエス様に聞き従いイエス様と同じ栄光の姿に変えていただくよう祈ることを勧めました。ラファエロの絵画も使用して視覚からも訴えました。

   『イエスに聞き栄光の姿へ』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 教会の暦では、今日は「大斎節前主日」という主日で、今週の水曜日、17日から「大斎節」に入ります。
 本主日福音書はマルコによる福音書9:2からの、いわゆる「変容貌(キリストの変容)」の箇所で、イエス様が受難予告をされて、エルサレムに行くと決めてから6日後の出来事だと言われています。

 今日の福音書箇所について、解説を加えて振り返ります。
 イエス様は、ペトロ、ヤコブヨハネの3人を連れて、高い山に登られました。その山の上において、弟子たちの目の前で、イエス様の姿が変わったという出来事が起こりました。「衣は真っ白に輝いた。それはこの世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほどだった」と記されています。衣が真っ白に輝き、「この世の」とわざわざ断ったのは、この白さが天上の輝きから発出していることを示しています。その光景は、イエス様が神の栄光をお受けになったことを表す姿です。
 そして、そこで、弟子たちは、不思議な光景を目にしました。そこに、モーセとエリヤが現れ、イエス様と話し合っておられたのです。モーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の中心部分を表し、この3人が語り合うとは、イエス様の受難と復活が、聖書に記された神の計画の中にあることを示していると考えられます。

 この場面を描いた絵画があります。バチカン美術館にあるラファエロの「キリストの変容」です。

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 この作品では、上部のイエス様の変容貌の部分に加え、絵の下部にこの箇所の後のエピソード(汚れた霊に取り憑かれた少年を癒やす奇跡)が組み合わさられています。上部では、山の上で姿を変えられたイエス様が輝く光のオーラと雲の中にモーセとエリヤを伴い浮かんでいます。下の地上には弟子たちがいます。その何人かは栄光の光に幻惑され、他は祈りを捧げています。この奇跡を目撃している群衆の身振り・手振りにより二つの奇跡が結びつけられており、群衆の上げた手は、イエス様の方に向かっています。
 
 聖書に戻ります。弟子たちは、その変容貌の光景からイエス様が、モーセとエリヤを相手に、親しく語り合っておられると、とっさに思ったのです。ペトロは思わず口走りました。「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。幕屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために。」 
 ペトロが幕屋を建てようと言っているのは、このあまりに素晴らしい光景が消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからと考えられます。ちなみにここで「幕屋」と訳されている言葉(スケーネー)は、遊牧民が寄留地での住まいとする「幕屋・天幕・仮小屋」を表します。この前の新共同訳聖書では「仮小屋」、口語訳では「小屋」と訳されていましたが、「幕屋」が原文に一番近いと考えます。
 さて、そのうちに、雲が彼らを覆いました。雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。すると、「これは私の愛する子。これに聞け」という声が、雲の中から聞こえました。声の主はもちろん父なる神様です。「私の愛する子」という言葉は、ヨルダン川でイエス様が洗礼を受けられたときに天から聞こえた声と同じです(マルコ1:11)。洗礼の時から「神の愛する子」としての歩みを始めたイエス様は、ここからは受難の道を歩むことになりますが、その時に再び同じ声が聞こえます。つまりここで、この受難の道も「神の愛する子」としての道であることが示されたのです。「これに聞け」の「聞く」はただ声を「耳で聞く」という意味ではなく、「聞き従う」ことを意味します(申命記18:15等)。弟子たちが急いであたりを見回しますと、そこには、イエス様のほかには誰もいませんでした。
 イエス様は、山を下っているとき、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない」と、弟子たちに命じられました。
 これが、山の上でイエス様の姿が変わられた(変容貌)という出来事です。

 この箇所を通して、神様は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか?
 7節に「これは私の愛する子。これに聞け。」とあります。この言葉の前にペトロは5節でイエス様とモーセとエリヤに一つずつ「幕屋」を建てようと提案しています。これは、ペトロはイエス様をモーセやエリヤと同列に置いていると言えます。しかし、その提案は神様から退けられ、神様は「イエス様に聞きなさい」と教えられました。この神様の声は、イエス様こそが旧約聖書を成就する者であることを明らかにしています。そして、イエス様こそ神様が愛してやまない我が子であることが示されました。さらに神様は「これに聞け」とつけ加えました。イエス様が語る通りに、イエス様が行う通りにあなたがたはしなさい、ということです。
 この声が聞こえた後、弟子たちが周囲を見回すと、誰も見えず、イエス様だけが自分たちと共にいるのに気がつきます。弟子たちと共にいるイエス様は、これから十字架の道を歩みます。神様は弟子たちがイエス様と共に十字架を担うことを求めておられるのです。
 十字架の道こそが栄光への道です。それを教えるために、神様が山の上で天からの栄光を弟子たちにまざまざと示して、イエス様に聞き従って受難の道を歩むようにと呼びかけたのです。イエス様と共に十字架を担い、永遠の栄光を目指して歩むべきだ、と。それこそが神様が求めておられることであります。

 皆さん、イエス様は私たちをも神様に出会う山に連れて行ってくださいます。「これは私の愛する子。これに聞け。」という言葉は、私たちにも向けられています。「イエス様に聞く」とはイエス様の言動(言葉と行い)に聞き従うことです。ここでは、受難に向かうイエス様と共に十字架を担うことです。しかし、それは自分の力でできるものではありません。日々聖書を読み祈り、主日の礼拝に参列すること等により、それぞれの十字架を負う力が強められ、徐々にキリストの姿に変容させられていくのだと思います。
 私たちは信仰によってそれを負う力を強めていただき、神様によってイエス様と同じ栄光の姿に変えていただけるよう、祈り求めて参りたいと思います。

「星の王子さまとキリスト教(2)」

 2週間ほど前のブログで「星の王子さまキリスト教」について、特に最も有名な「一番大切なことは目に見えない」の言葉にスポットを当てて記しました。今回はさらに一歩踏み込んで、「星の王子さまはイエス様ではないか」ということを中心に述べてみたいと思います。
 「星の王子さま」には「神」という言葉はなく、「イエス・キリスト」も文言としては出てきません。
 しかし、星の王子さまとイエス様の類似点は多くあります。天(星)からこの地上に降り、愛することの真実を宣べ伝え、天(星)に帰っていきます。そもそも「王子さま」とは「王」の息子であり、イエス様は王の王である神の息子、「子なる神」です。
 童話「星の王子さま」では、聖書のモチーフも、「星」「ヘビ」「りんごの木」「井戸」「水」「砂漠」「ヒツジ」というふうにいくつも見つけることができます。
 このあたりのことについては、私が神学生だった時、礼拝堂の金曜の聖餐式に参列されていた立教女学院名誉教授の高橋洋代先生からいただいたご本人の著書「『星の王子さま』からのクリスマス・メッセージ」にも記されていました。

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 この本の中にこうあります。「『星の王子さま』はサン=テグジュペリが、クリスマス用の童話の依頼を受けて書いた本である。(P.92)」と。まさに「星の王子さま」にはクリスマス・メッセージが込められていると考えます。
 高橋洋代先生のこの本にも「重要な役割を果たしているのが星である。(中略)人は救い主イエス・キリストの誕生を星によって知り、その星の導きによって幼な子イエスに出会うのである。(P.93~94)」とあります。
 クリスマスは、神様が私たち人類を愛するがゆえにその独り子、王子さまをこの世に送ってくださった出来事です。ヨハネの手紙一4:10にこうあります。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
 これは、神様が、御子イエス・キリストをこの地上に遣わし、私たちのすべての罪をイエス様に負わせ、身代わりとして罰せられたことを意味しています。
 この本に気になる文章がありました。それはこうでした。
『涙の国のところにある、多くの邦訳が「ふしぎな」と訳している原語は、mystèreの形容詞mystèreieuxであり、mystèreには、不思議のほかに、神秘、謎、秘密、キリスト教の奥義、などの意味がある(P.112)』と。フランス語のmystèreは英語のmystery・sacramentであり、ラテン語ではサクラメントゥム、私たちが「聖奠」と訳している言葉です。星の王子さまは、イエス様のように神様の聖奠(サクラメント)としてこの地上に派遣されたと考えます。

    高橋先生の本は特にクリスマス、イエス様の誕生と「星の王子さま」との類似点について記していますが、イエス様の十字架や復活と「星の王子さま」の類似点に記してあるのが、次の本『「星の王子さま」と永遠の喜び』です。

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 著者は前回のこのテーマで紹介した『「星の王子さま」と聖書』を記したプロット神父です。この本の『第4部 永遠の喜びを目指して』の『星の王子さまの「帰り」』の中にこうあります。
『王子さまの地上での滞在期間が終わりました。王子さまがヘビにかまれて死ぬということですが、サン=テグジュペリはここで「死ぬ」という言葉を使わず「うちに帰る」と言っています。(P.176)』。
 そして、王子さまとイエス様の共通点に関してこう記しています。
『彼(イエス)が死を迎えることになった時、自分の仲間である弟子達に「父のもとへ行く」と言いました。神である父の人類に対する心を伝えるために遣わされたイエスは、その「使命」を果たしてから、また父のもとに戻るのです。(P.178)』
 星の王子さまもイエス様も、「亡くなる」のでなく、もといた家や父のもとへ帰るのです。それは私たちも同じです。逝去のことを「帰天」と言う所以です。
 プロット神父は、さらに、「うちに帰った」王子さまの体について何も言っていないこととイエス様の死体も墓にはなかった(空の墓)について言及しています。私は、これこそ王子さま及びイエス様の復活の出来事だったと考えます。
  ヨハネによる福音書4章2~3節にこうあります。
『私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。』
  このような聖句を読みますと、私たちの故郷は生まれる前にいた父の家にあり、そこにイエス様が導いて下さることが分かります。
『「星の王子さま」と永遠の喜び』にこうあります。
『死ぬことが「父のもとへ行く」ことだとすれば、死は辛くて、暗いイメージを失います。それだけではなく、死が父への道であれば喜びを持って死を迎えることさえできるのです。(P.178~179)』
  「星の王子さま」とイエス様の共通項はたくさんありますが、そのことで終わるのでなく、二人とも人生の最大の問題である「死」について希望を与えていると言えます。それは故郷である天の「うちに帰ること」であり、「父のもとへ行くこと」なのです。それこそ「永遠の喜び」です。童話「星の王子さま」はそのことを私たちに伝えるために記された、現代の福音書なのだと私は考えます。

 

 

顕現後第5主日聖餐式 『仕えることと祈ること』

 本日は顕現後第5主日。高崎の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、コリントの信徒への手紙一9:16-23とマルコによる福音書1:29-39。説教では、シモンのしゅうとめの癒やしと宣教の箇所から「人々に仕えることと神に祈ること」の必要性を理解し、イエス様に倣い、人々に仕え神に祈るよう心がけること等について語りました。

   『仕えることと祈ること』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は顕現後第5主日福音書の箇所はマルコによる福音書1章29節から39節です。今日の福音書の内容は、大きく2つの部分からなっています。イエス様の2つの活動、癒しについて(29-34節)と宣教について(35-39節)が記されています。聖書協会共同訳聖書の小見出しは「多くの病人をいやす」と「巡回して宣教する」となっています。この箇所を解説を加えて振り返ります。

 まず、話の前半です。
 イエス様と弟子たちはシモンとアンデレの家に行きました。するとシモン・ペトロのしゅうとめが熱を出して寝ていました。ペトロは結婚していて義理の母(彼の妻の母)と同居していたようです。ペトロは後に初代ローマ教皇といわれますが、その彼が結婚していたのですね。シモンのしゅとめが病気であり、人々は早速、彼女のことをイエス様に話しました。31節にこうあります。
「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は引き、彼女は一同に仕えた。」
「手を取って起こされる」というイエス様の動作は印象的です。イエス様の手を通して、イエス様の愛と力と慰めが彼女の中に入ってきて、彼女を起き上がらせました。そのとき、彼女はただ体調が回復したというだけではなく、深くイエス様を信頼し、「この人のためなら何でもして仕えよう」という気持ちになったのではないでしょうか?
 この「仕える」はギリシア語で「ディアコネオー」です。これまでの新共同訳や口語訳の聖書では「もてなす」と訳されていました。この語は文字通りには「食卓で給仕する」ことを表し、さらにあらゆる奉仕を表し、「仕える」の意味になります。この箇所では、イエス様から癒されたシモンのしゅうとめに使われました。ここはまずは「食卓で給仕する」の意味でしょうが、救いに招かれたキリスト者の根本姿勢としての「仕える」という意味も含まれ、新しい訳の聖書協会共同訳ではそちらの意味をとったと考えられます。
 そして、夕方になると、人々は「病人や悪霊に取りつかれた者を皆」イエス様のもとに連れてきました。イエス様は大勢の人たちを癒しました。

 つづいて話の後半です。35節にこうあります。
 「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」
 寂しい所で、人知れずに祈るイエス様の姿を記すことにより、神様との深い交わりである祈りの姿を教えています。その後、イエス様はガリラヤ中の会堂に行き宣教したのでした。
 今日の箇所はこのような話でした。

 今日の福音では、人々の中へ出かけ多くの人を癒やし仕え宣教したイエス様の姿が記されています。しかしその一方でまたイエス様は、「寂しい所」にも出かけて行き、そこで祈りました。このどちらも、イエス様にとっては必要な場所だったのです。私たちもまたこの2つの場所が必要である、ということをイエス様の姿は私たちに教えてくれているのだと思います。イエス様に倣う者として働き続けるために、どこまでも人の中に入って仕えること、また、だれもいない場所で、神様と向き合って祈ること、そのどちらもが必要なのだということです。

 このことで、私はかつての自分のことを思い浮かべます。私は県庁内の教育委員会で11年間勤務しました。特別支援教育の指導主事として8年、特別支援教育室長として3年です。本日発行された教区時報でも少し触れていますが、特殊教育から特別支援教育へと変わる転換期でした。指導主事では私の大きな仕事は就学指導であり、障害のある子の学校選択についてどの学校に行くのが適切かを判断するという、重い仕事でした。室長としては新たに県立特別支援学校3校を創設し、小中学校の中、あるいは小中学校に併設して彼らとの日常の交流を図りたいと考えていました。新しい教育の流れ、児童生徒の実態や保護者の思いを受け止めること、関係部局との調整等、様々な困難や思い煩いがありました。県庁に勤めていた11年間、昼休みや仕事帰り等に近くのマッテア教会に寄り、聖体訪問を何度もして、聖堂の中で一人神に祈る時間を多く持ちました。児童生徒の実態や保護者の思いを知るために就学前の障害児施設を訪問したり、新たな特別支援学校創設のため可能性のある市町村の小中学校に出向きました。人々の中に出て行き、それと共に平日の聖堂という「寂しい所」にもよく出かけて行き、そこで祈ったのです。イエス様がされたように、人の中に入って仕えること、それとだれもいない場所で、神様と向き合って祈ること、そのどちらもが必要であり、それにより、主の御心から大きくは離れない判断、行動ができたと思っています。

 そして、今、私はそれが十字架の意味するところではないかと考えるに至りました。オールター(祭壇)の十字架をご覧ください。

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 十字架は左右の横の線と上下の縦の線が交わっています。水平に伸びた横の線は地上の人と人のかかわり、上に向かって伸びている縦の線は人と神様とのかかわりを表しています。この2つはどちらも大切であり、切り離されることなく一体であることを十字架は示しているのだと考えます。
  
 皆さん、本日の「シモンのしゅうとめの癒やしと宣教」の箇所は、人々の中に入り仕えることと神様と向き合って祈ること、そのどちらも必要であることを示しています。私たちは人々の中で多くの人を癒やし仕え、また寂しい所で神様に祈ったイエス様に倣い、人々に仕えると共に、日々の生活において心静かに神様に祈るように心がけて参りたいと思います。

 

『なかにし礼~「愛のさざなみ」に思う~ 』

 前々回のブログで浜口庫之助作詞・作曲の「バラが咲いた」の基となった「星の王子さま」について述べましたが、ハマクラ作品として世俗の中で聖なるものを感じさせるものとしては、なかにし礼作詞・浜口庫之助作曲で島倉千代子が歌った「愛のさざなみ」を挙げることができると思います。

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 「愛のさざなみ」はポップス調で、離婚や金銭問題等で悩みヒット曲にも恵まれず停滞していたと思われる島倉千代子の新たな復活の道を示した作品でもあります。1968年のレコード大賞特別賞を受賞しました。
 このyoutubeで聞く(見る)ことができます。
  https://www.youtube.com/watch?v=PV2jTR8KJJ8
 
 歌詞はこうです。
1 この世に神様が 本当にいるなら
  あなたに抱かれて 私は死にたい
  ああ 湖に 小舟がただひとつ
  やさしく やさしく くちづけしてね
  くり返す くり返す さざ波のように
2 あなたが私を きらいになったら
  静かに静かに いなくなってほしい
  ああ 湖に 小舟がただひとつ
  別れを思うと 涙があふれる
  くり返す くり返す さざ波のように
3 どんなに遠くに 離れていたって
  あなたのふるさとは 私ひとりなの
  ああ 湖に 小舟がただひとつ
  いつでも いつでも 思い出してね
  くり返す くり返す さざ波のように
  さざ波のように  

 この歌詞の湖は、私にはガリラヤ湖のように思われます。2年半前に訪れたガリラヤ湖のこんな風景を思い浮かべます。

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 既に記しましたように、この曲を作曲した浜口庫之助は青山学院出身のクリスチャンです。作詞したなかにし礼はクリスチャンではありませんが、立教大学仏文科卒で、キリスト教に親しんでいたと考えられます。なかにし礼は昨年12月に心臓病(心筋梗塞)で逝去しましたが、がんに冒されその闘病記で「般若心経」と旧約聖書、ことに「伝道の書」に親しんでいたことが記されていました。2016年に刊行された『闘う力 再発がんに克つ』(講談社)です。

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 この本で、なかにし礼が引用していたのが「伝道の書(コヘレトの言葉)」の1:2-5です。
『空の空 空の空、一切は空である。
 太陽の下、なされるあらゆる労苦は 人に何の益をもたらすのか。
 一代が過ぎ、また一代が興る。 地はとこしえに変わらない。
 日は昇り、日は沈む。 元の所に急ぎゆき、再び昇る。』
 なかにし礼は、「死について語っているから耳を傾けるに価する」と記しています。死に直面している現実からこれらの言葉が心に響いたのだと考えられます。
 「コヘレト(伝道者)の言葉」の1:1には「ダビデの子、エルサレムの王、コヘレトの言葉。」とありますように、これらの言葉はダビデの子、ソロモンの言葉だと考えられます。栄華を誇ったエルサレムにいた王様も「空しさ」、心に満たされないものを感じていたのだと思います。

 「愛のさざなみ」の歌詞に戻りますと、1節の冒頭に「この世に神様が 本当にいるなら」とあります。仮定法を使っていますが、神の存在を肯定しているように感じます。
 「ああ 湖に 小舟がただひとつ」「くり返す くり返す さざ波のように 」の言葉から、私は、マルコ福音書6:45-52の、ガリラヤ湖上の舟の弟子たちに湖の上を歩いて近づくイエス様の姿を思い浮かべます。51・52節はこうです。
『皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐに彼らと話をし、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まった。弟子たちは心の中で非常に驚いた。』
 舟にイエス様が乗り込むと風は静まりました。イエス様は私たちの方に近づいてくださり、「安心しなさい。私がここにいる。恐れることはない」と声をかけ、共にいてくださり、それにより平安が得られるのです。

「愛のさざなみ」の3節の後半に「ああ 湖に小舟がただひとつ いつでも  いつでも思い出してね くり返すくり返す さざ波のように」とあります。 湖とは私達のこの世界、小舟は私達の生活です。イエス様がこの世界に来て、生活を共にしてくださるのですから、ソロモンが感じた「空しさ」はもはやなく、心は満たされます。それこそ、イエス様が私たちに示された「愛のさざなみ」であると考えます。

 

顕現後第4主日聖餐式 『権威ある新しい教えを聞く』

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 15世紀のフランスで使われていた時祷書(時間ごとの祈りの書)の中にある「汚れた霊を追い出すイエス」の挿絵です。

 本日は顕現後第4主日。高崎の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、申命記18:15-20とマルコによる福音書1:21-28。説教では、「汚れた霊に取りつかれた男を癒やす」箇所から、「権威ある新しい教え」にスポットを当て、チャプレンをしているマーガレット幼稚園の誕生会での園児の発言から気づかされた祈りの重要性やイエス様の教えに耳を傾けること等について語りました。

『権威ある新しい教えを聞く』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は顕現後第4主日です。福音書箇所は、イエス様の力ある言葉により追い出された汚れた霊の物語です。また、本日の旧約聖書である申命記18章は、イスラエル人がエジプトを出て荒れ野の旅を続け約束の地を目前にした時、指導者モーセが遺言として彼らに語りかけた箇所が取られています。
 本日の福音書の箇所は、先主日の続きのマルコによる福音書1章21節から28節で、聖書協会共同訳聖書の小見出しは「汚れた霊に取りつかれた男を癒やす」となっています。本日の箇所を解説を入れて振り返ってみます。

『ある安息日に、カファルナウムに着いたイエス様は、会堂に入って教え始められました。「安息日」は、ユダヤ教では金曜日の日没から土曜日の日没までにあたり、労働を休み、礼拝を行うための日です。また、カファルナウムはガリラヤ湖の北西岸にある町です。さらに、会堂は、シナゴーグと呼ばれ、ユダヤ教の礼拝が行われる場所で、子供たちに律法を教える学校であり、議会や裁判が行われる場所でもありました。そこで、イエス様の「教え」を聞いた人々は非常に驚きました。その教えは、今まで聞いた律法学者のようではなく、権威ある者のようにお教えになったからでした。
 この権威ある教え、直接、神様が語られる教えに対して、いちばん最初に反応したのがこの会堂にいた「汚れた霊に取りつかれた男」でした。その男が「ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」と叫びました。汚れた霊とは悪霊のことで、悪魔、サタンの使いと考えられていました。当時の人々は、病気や不幸の原因は、悪霊の仕業だと考えていました。汚れた霊、悪霊は、直感的にイエス様の正体を見抜き「神の聖者だ」と告白したのでした。
 イエス様が、「黙れ。この人から出て行け」と、この汚れた霊に命じ、叱りつけると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行きました。
 それを見た人々は、皆驚いて、「これは一体何事だ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聞く。」と論じ合いました。
 たちまちイエス様の評判はガリラヤ地方の隅々にまで広まりました。』
 このような箇所でした。

 この「権威ある新しい教え」とは、どのような教えでしょうか?
 ここで「権威」と訳されたギリシア語は「エクスーシア」という言葉で、元々は「本質(ウーシア)から出て来た」「本質から溢れ出た」という意味合いの言葉です。人々が感じ、経験したイエス様の権威とは、神様の本質から溢れ出る命と力と愛です。神様の命と力と愛を、人々はイエス様に接する中ではっきりと経験しました。自分たちに注がれる神様の力ある愛を経験したのです。そうしますと日本語の堅苦しい「権威」というイメージとはずいぶん違ってきます。

 イエス様は汚れた霊を従わせることによって、彼の教えが「権威」をもった新しい「教え」であることを示しました。イエス様の言葉を、「権威ある教え」として受け取った人々は、イエス様の言葉に悪霊を追い出す力があることを知り、今まで見たことも聞いたこともない「新しい教え」だと受け取ったのでした。
 イエス様の権威は、肩書きや知名度や学識からきている権威ではありません。イエス様の権威は、神様の権威であり、神様ご自身の力が直接現されているものなのであります。

  「汚れた霊」と言われても現代の私たちにはピンときませんが、聖書では、この「汚れた霊」や悪霊、または悪魔やサタンを多くの箇所で描いています。具体的にそれらの正体ははっきりとは描かれていませんが、それらは神様との関係を切り離し、私たち人間に生きる上での苦しみを与えている様々な要因そのものと考えられます。例えば戦争や内戦、身近には様々なハラスメント、そして今、直面している新型コロナウイルスの感染拡大なども「汚れた霊」ととらえることができるかもしれません。私たちはそれらの問題と向き合いつつ、その理不尽さに嘆き、人間の無力さに気付かされます。また、私たちは、人生に疲れ、魂の渇きを覚え、自分自身を見失う時もあります。この会堂にいた男性もそのようなものを背負って生きていたのかもしれません。「汚れた霊」はそのことを指し示しているとも考えられますから、決して現代の私たちと無縁のものとは言えないと思います。
 そして、「汚れた霊」は、イエス様の教え、その権威ある言葉に対して反応し、イエス様の権威ある新しい教えによって追い出されたのです。

 本日の福音書の「汚れた霊に取りつかれた男を癒やす」箇所から、私たちはどうあったらいいでしょうか? 
 少し話は変わりますが、私は玉村のマーガレット幼稚園のチャプレンをしていて、一昨日29日(金)の誕生会で「くつやのマルチン」の絵本を読みました。読み終わって、子供たちに「神様は私たちがどうすると喜んでくださるでしょうか?」と尋ねました。私としては「優しくする」とか「人を助ける」という答えを期待していました。ところが、一番最初の子供の答えは「お祈り」ということでした。私は驚きました。「そうだね」と受け止め「他に?」と聞いたら、次に「助ける」と答えました。「子供はすごい」と思いました。神様はお祈りすることを喜んでくださることを子供から教わったのでした。
 祈りとは神様との対話です。そのためにはまず神様の声を聞く必要があります。今日の「汚れた霊に取りつかれた男を癒やす」箇所で言えば、神様は、私たちがこの「権威ある新しい教え」に耳を傾けることを求めておられ、そうすることを喜ばれるのであります。私たちは、今、改めて本当に権威ある方の教えに聞き従うことができるよう祈って参りたいと思います。