オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

復活日私祷「空の墓」を信仰的に見る

 


 本日は復活日ですが、「イースターおめでとうございます」とはなかなか言いづらい状況にあります。新型コロナウイルス感染症拡大のため、勤務している高崎聖オーガスチン教会の礼拝(公祷)は休止中で、アンテ・コミュニオン(聖餐式前半のみ・私祷)を捧げました。説教原稿も用意しました。「空の墓」の出来事を「見る」という言葉に注目して話してみました。また、今のこの状況を「空の墓」と見なして何が大切か語りかけました。説教原稿をお読みいただければ幸いです。

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   「空の墓」を信仰的に見る

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は復活日、イースターです。例年ですと多くの皆さんと「イースター、おめでとうございます」とお祝いするところですが、今年はそういう気になれません。新型コロナウイルスが世界中に蔓延していて、どの地域でもイエス様の復活をお祝いする雰囲気は盛り上がっていません。未だ受難の日々が続いているからです。イースター・エッグの用意もできませんでした。イースターを心待ちにしてその準備をする。今年はそのような気持ちになれませんでした
 このウイルスの感染により、亡くなった人々、苦しんでいる人々のため、また、医療に携わっている方々のため、そして、さまざまな被害を受けている人々のため、一日も早い、収束をお祈りいたします。

 このような状態で迎えた復活日ですが、本日、与えられた聖書はこのようです。聖書日課A年の復活日の福音書は、ヨハネまたはマタイの「空(から)の墓、空虚な墓(The Empty tomb)」の箇所が割り当てられています。今回はヨハネの方を取り上げます。また、第1朗読は使徒言行録からで、ローマの百人隊長であるコルネリウスの家でペトロが「使徒たちへの復活の主イエスの顕現(現れること)」が強く語られる箇所です。使徒書のコロサイ書も「キリストと共に復活させられたわたしたち」(一節)という表現が見られ、キリストにある全く新しい生き方について述べられています。

 今回の説教も短くお話しします。
  今日の福音書箇所はヨハネの20章の最初のことろです。マグダラのマリア、シモン・ペトロ、イエス様に愛された弟子が、イエス様の墓に行って、イエス様の遺体がない、墓が空(から)であることを見る箇所です。
 このような話です。
 週の初めの日(日曜日)、マグダラのマリアは、安息日が明けるやいなや、まだ薄暗いうちからイエス様を葬った墓に向かいます。そこで、塞いでいたはずの石が取り除けられ遺体がないのを見ました。マグダラのマリアはすぐさま弟子たちのところへ飛んで行って、「主が墓から取り去られました」と報告します。ペトロともう一人の弟子が先を争ってイエスが葬られていた墓に急ぎます。墓に着いた彼らが目撃したのはまさに空(から)になった墓でした。そして、ペトロは先に墓に入り、イエス様の身をくるんでいた亜麻布と頭を包んでいた覆いを見ました。さらに、もう一人の弟子も墓に入り、彼は見て信じました。目的語がありませんが、おそらくイエス様の復活を信じたのだと思います。それから弟子たちは家に帰りました。

 私はこの箇所で「見る」と言う言葉に注目しました。日本語ではどれも「見る」で英語の聖書でも「see」で同じなのですが、ギリシャ語原文は違う言葉が使われていました。マグダラのマリアが墓から石が取りのけてあるのを「見た」とありますが、ギリシャ語原文では現在形でブレポー、この意味は単に「目で見る」ということです。ペトロが亜麻布が置いてあるのを「見た」とありますが、原文は現在形でセオレオー、英語のセオリーの語源になった言葉で、「詳細に観察する」と言った意味です。もう一人の弟子も入って来て「見て」のエイドンの原形は、「洞察する」とか「(精神的・霊的に)見て知る」ということで、信仰的に見ることを意味します。それぞれ意味合いが違います。マグダラのマリアは単に目で見て、ペトロは論理的に観察し、もう一人の弟子は洞察しました。そしてこの弟子は「(霊的に)見て」信じたのでした。
 マグダラのマリアやペトロとこのもう一人の弟子の違いは何でしょうか?
 マグダラのマリアやペトロは「空の墓」を、「イエス様の遺体がない」というふうに見ています。しかし、もう一人の弟子は、事実の奥にある出来事を洞察し、復活を信じました。このイエス様に愛されていた弟子はヨハネと見られてきました。彼は「空の墓」を霊的に、信仰的に見て、今もイエス様が自分を愛していることに気がつき、イエス様が今も生きている、つまりイエス様の「復活」を信じたのではないでしょうか?
 この後、イエス様は墓のそばで泣いているマグダラのマリアや家に閉じこもっている弟子たちに現れました。「空の墓」の出来事の後、イエス様は復活の姿を現されたのです。

 私は、一昨日、聖金曜日(受苦日)の礼拝を、この聖堂の中で一人で献げていて、今のこの教会の状況、この社会の状況は「空の墓」ではないか、と感じました。「信徒のいない聖堂、人気のない街」、人が集まることができない現実、コロナウイルス感染拡大の現実、それを単に目で見る、論理的に観察するのでなく、洞察すること・信仰的に見ることが大切なのではないでしょうか? 

 皆さん、私たちの今の空(から)の状態、空虚な状況の中にもイエス様は生きておられます。そして必ず「復活」の姿を現されます。今、目の前に起きている出来事を、このイエス様が愛された弟子のように、洞察し信仰的に見て、復活を信じる者とならせていただくよう祈り求めて参りたいと思います。