オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

復活節第2主日私祷「トマスの信仰に倣う」

 本日は復活節第2主日です。緊急事態宣言の対象が全国になり、一層コロナウイルスの感染拡大が危惧され、高崎も街にも人が減り、車も少ないように思います。
 本日も高崎聖オーガスチン教会の礼拝(公祷)は休止中で、アンテ・コミュニオン(聖餐式前半のみ・私祷)を捧げました。

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  説教も6分程度で用意しました。「トマスの信仰に倣う」と題して、トマスとイエス様とのかかわりに絞って、話しました。朝ドラ「エール」にも触れ、ヒロインの母が父を亡くした子供に語った言葉「お父さんはいる、目には見えないけれど、ずっとあなたたちのそばにいる」に言及し、復活理解の一助にしました。説教原稿をお読みいただければ幸いです。

 

 トマスの信仰に倣う
 
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

  緊急事態宣言の対象が全国になり、一層、新型コロナウイルスの感染拡大と死の脅威がもたらされています。感染された方々、亡くなられた方々、医療従事されている方々、政治に携わっている方々、経済的に大きな打撃を受けている方々などに、必要な助けと力が与えられますように、心から祈ります。

 今日の福音書の箇所はヨハネによる福音書の20章19~31節で、先週の「空の墓」の出来事の続きです。今日は24~29節の「トマスへイエス様が現れる箇所」を中心に考えてみたいと思います。
 24節に「トマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」とあります。トマスは、最後までイエス様に従うという覚悟を果たせなかった自分に失望し、また、他の弟子たちにも失望して、弟子の集いから離れていたのかもしれません。しかし、このトマスにイエス様が生きているという知らせが届きます。トマスは、もしそれが本当ならば自分で確かめたいと考え、「八日の後」に「弟子たち」が「また家の中に」いたとき「トマスも一緒にい」ました。
 そこに復活したイエス様が再び現れます。イエス様は弟子たちの真ん中に立ちます。戸が閉められていても、入ることができました。それは、よみがえったイエス様のからだは、その両手とわき腹に傷跡を残す体ですが、しかし別のからだであることを示しています。復活したイエス様は地上のイエス様と同一でありながら、別のレベルのいのちによみがえったのです。イエス様の復活は、もとの(再び死ぬことになる)体への蘇生ではなく、もはや死ぬことのないいのちへの復活であります。
 トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言っていました。ところが、主イエス様が現れトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」とおっしゃると、トマスは、自分の罪が主イエス様を釘付けにし槍傷をつけたこと、更に主の十字架は自分の罪の赦しであることに気づき、感極まり、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰の告白をしたと私は考えます。イエス様の御体に触れることなしにです。 
 それに答えて、イエス様は「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる者は幸いである」と戒めました。この言葉はトマスに向けられた戒めであるだけでなく、現代に生きる私たちへの励ましでもあります。彼ら、そして私たちは肉の目でイエス様を見ることはできません。しかし、イエス様のなさったこと(十字架と復活)を受け入れて信じるなら、「幸い」な者となれるとイエス様はおっしゃっているのです。

 
 ところで、この春から始まったNHK朝の連続テレビ小説「エール」で、ヒロインの父が大阪で子供を助けるため電車に撥ねられ亡くなり、悲しむ家族の様子がありました。
 その時、薬師丸ひろ子演じる母、光子が子供たちに「お父さんは、いる。目には見えないけど、ずっとあなたたちのそばにいる」と語りかけたシーンは胸に迫りました。光子の「すべてを主に委ね、肉体は滅んでも、お父さんの魂は主と共に永遠である」という信仰が、「目には見えないけど、ずっとあなたたちのそばにいる」という、子供たちへの言葉を生み出したと言えます。これは復活したイエス様が昇天後も「目には見えないけれど、ずっと私たちと共にいる」という理解と同様と考えます。それはトマスが、そして弟子たちが実感したことです。 

  私たちはだれもイエス様を見たことはありません。でも復活したイエス様はいつも私たちと共にいてくださいます。そして「見ないのに信じる人は幸いである」とイエス様はおしゃっておられます。見ることではなく信じることが大事なのだと思います。見ることよりもむしろ聞くことが大切のようにも思います。何を聞くのでしょうか? それは神様の声、そしてイエス様の言葉です。

 皆さん、私たちは祈りや聖書を読むこと、日々関わり合う人や起きる事象等を通して、語りかける神様の声を、イエス様の言葉を聞きたいと思います。そして自分の罪がイエス様の十字架により赦され、イエス様の復活によって私たちを永遠の命に生きるようにして下さったことに気づき「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白をしたいと願います。
 目には見えないけれど復活した主がずっと私たちと共にいてくださることを信じ、神様の声、イエス様の言葉を聴いて、私たちが日々主と共に歩んでいけるよう祈り求めて参りたいと思います。