オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

諸聖徒日聖餐式『8つの幸いに生きる』、墓地礼拝

 本日は諸聖徒日。高崎の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、シラ書44:1-10、13-14とマタイによる福音書5:1-12(「山上の説教」の冒頭)。説教では、最初に諸聖徒日の意味を示し、代祷で高崎聖オーガスチン教会のすべての逝去者を覚えて名前を読み上げることを取り上げ、この日にこの聖書箇所が読まれる関連について述べました。そして、8つの幸いに生き既に召されて天の御国にいる人々に倣い、自分の貧しさを知り神様により頼むよう勧めました。
 また、礼拝後12時から高崎八幡霊園の教会墓地で「逝去者記念の式」を行いました。その後、霊園内の信徒の墓地を巡り祈りを捧げました。

f:id:markoji:20201101214750j:plain

  『8つの幸いに生きる』

 <説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は諸聖徒日です。世を去ったすべての聖徒(聖人)たちのために祈る祝日です。11月1日の固定祝日で、今年は主日と重なり、諸聖徒日が優先的に扱われました。諸聖徒日は、カトリック教会では「諸聖人の日」と言い、英語ではAll Saints' Day、有名無名のすべての聖人のための祝日です。 私たち聖公会カトリック教会では多くの有名な聖人を特別にお祝いしていますが、それ以外にも名も知れず聖なる生き方をした人々がたくさんおられました。その人々も含めての祝日が諸聖徒日、「諸聖人の日」です。今日の旧約聖書続編シラ書44章8-10節に「先祖たちの中には、後世に名を残し、輝かしく語り継がれている者のほかに、忘れ去られた者もある。彼らは、存在しなかったかのように消え去り、あたかも生まれ出なかったかのようである。彼らの子孫も同様であった。しかし慈悲深い先祖たちの正しい行いは忘れ去られることはなかった。」とありますが、諸聖徒日は、この忘れられた慈悲深い聖なる生き方をした人々も含めて祝う日なのであります。
  ちなみに明日11月2日は諸魂日(カトリックでは「死者の日」、英語ではAll Souls' Day)で、世を去ったすべての信徒・死者の魂のために祈る日です。

 諸聖徒日のために用意された今日の福音書の箇所は、マタイによる福音書5章1-12節です。イエス様が公生涯の最初にされた「山上の説教」のはじめの、いわゆる「八福の教え(八つの幸福の教え)」の箇所です。
 今日の箇所から始まるマタイ福音書5-7章の長い説教は、以前は「山上の垂訓」と言われましたが、今では「山上の説教」と呼ばれることが多くなりました。垂訓というと何か上から訓示を垂れるニュアンスがあるからかもしれません。
 2年前にイスラエル聖地旅行をした時にガリラヤ湖近くの祝福の丘にある「山上の垂訓教会」を訪れました。

f:id:markoji:20201101214834j:plain

 八角形の教会で、内部にはこの「八福の教え」がラテン語で記されていました。
 本日の箇所の中心であるマタイによる福音書5章3-10節は、カトリックでは「真福八端」と呼ばれている箇所です。なぜ「真福八端」と呼ぶかといえば、本当の幸福を8つの短い言葉で、イエス様が教えてくださっているからです。この「真福八端」は、イエス様の教えの中心です。

 この教えは誰に向かって語られているでしょうか? 1-2節にこうあります。
「イエスは群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。」
 イエス様は群衆を見て山に登られました。すると弟子が寄ってきて教えられます。弟子にも教えられましたが、群衆を対象に語っていたことは間違いありません。この群衆はどのような人々でしょうか? それは、各地から集まったあらゆる病気、苦しさの中にある人々でした。その人々に向かって、イエス様は「幸いである」と言われたのです。

 新共同訳聖書では、「心の貧しい人々は幸いである」と表されますが、元々のギリシャ語では、「幸いだ、心の貧しい人々」「幸いだ、悲しむ人々」「幸いだ、柔和な人々」というように、「幸い、幸い、幸い」という呼びかけになっています。祝福です。文語訳聖書が「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者」だったことを覚えている方もおられると思います。こちらの方が原文にニュアンスが近いと思います。
「心の貧しい人々は幸いである」と言われると、何か自分と無関係な言葉を聞いているように思えるかもしれませんが、これは「幸いだ、心の貧しい人々」「幸いだ、悲しむ人々」「幸いだ、柔和な人々」と、イエス様が群衆だけでなく、私たち一人一人にも語られた祝福の言葉なのであります。さらに言えば、それは既に召されて天の御国にいる人々にも向けられていると考えます。

 「心が貧しい」というと日本語では「精神的貧困」というふうに感じますが、ここはそういう意味ではありません。直訳は「霊において貧しい」で、「神の前に貧しい」の意味と考えられます。神様の前では自分は何も持っていない貧しい状態であり、自分の力ではどうにもならず神様に助けを求め神様に信頼する人です。ですから「貧しく神様により頼む人」とでも訳せるように思います。ある聖書(フランシスコ会訳)では「自分の貧しさを知る人」とありました。「自分が貧しい者であると自覚する人」こそが祝福されるのです。
 イエス様に「幸いである」と言われた人々はどのような人々でしょうか? 3節から見ますと、心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、義のために迫害される人々です。これらの人々が「幸いだ」とイエス様はおっしゃるのです。諸聖徒(聖人)とは、そのような8つの幸いに生きた人々と言えるように思います。
 なぜそのような人々が幸いかというと、天の国がその人たちのものだからだ、とイエス様は教えておられます。天とは神のこと、国とは支配です。つまり、神様はそのような人々に神様の支配が及んでいるから、神様が共にいてくださるから幸いだというのです。これは大きな福音です。

 諸聖徒日にこの福音書箇所を読む時、新たな意味を持つように思います。この
後、代祷で当高崎聖オーガスチン教会のすべての逝去者を覚えて名前を読み上げていただきますが、既に世を去った人々とここに述べられている人々とが結びつき、「あの人は謙遜な人だった。あの人は私と泣いてくれた。あの人はいつも、にこやかに私を迎えてくれた。あの人は正義感のある人だった。あの人は困っている人を見るといつも手をさしのべていた。あの人は心の美しい人だった。あの人は人間関係を大切にしていた。あの人は祈りの人だった」などなど、それぞれの人となりや思い出があざやかに甦ってくるでしょう。この箇所で述べられている一つ一つの言葉がただ言葉でなく、一人一人の人間の生きた姿となって、思い浮かぶことと思います。これらの人々は8つの幸いに生きた人々であり、その言葉は私たちに対する慰めと励ましに満ちた祝福の言葉でもあります。諸聖徒日にこの箇所を読む意味はここにあると考えます。

 皆さん、神様は私たちが貧しい時、病気の時、悲しむ時、苦しむ時など、どのような状況にあっても私たちと共にいて、慰めと励ましに満ちた祝福の言葉を語りかけてくださいます。私たちはこの8つの幸いに生き既に召されて天の御国にいる人々に倣い、自分の貧しさを自覚し神様により頼み、神様の語りかけに耳を傾けることができるよう祈り求めたいと思います。