オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

聖霊降臨後第9主日 聖餐式『小さなことを主イエス様に』

 今日は聖霊降臨後第9主日。高崎で聖餐式を捧げました。聖書個所は、ネヘミヤ記 9:16-20とマタイによる福音書14:13-21。
 説教では「5000人の供食、パンと魚の奇跡」について、導入では2年前の聖地旅行での写真を使い、展開では旧約聖書を引用し憐れみ深い神が私たちを愛していること、また自分の小さな行いを主イエス様に捧げることについて語りました。。マザー・テレサの言葉にも言及し、神の偉大な愛によって奇跡が起きることと関係づけました。

   『小さなことを主イエス様に』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今日の福音書はマタイによる福音書の14章13節以下、いわゆる「5000人の供食、パンと魚の奇跡」の箇所です。この奇跡は4つの福音書すべてに記載のある唯一の奇跡です。この奇跡が行われた場所は、ガリラヤ湖北側のタブガという所で、現在、「パンと魚の奇跡の教会」というベネディクト会の修道院の教会があります。私は2年前の聖地旅行でこの教会に行きました。こんな教会です。

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 この教会の祭壇の下には、イエス様がこの上で奇跡を起こしたとされる岩があり、祭壇前の床には5世紀に制作されたという「5つのパンと2匹の魚」のモザイクがありました。

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 今日の箇所を振り返ってみましょう。
 最初に「イエスはこれを聞くと」とあります。これは「洗礼者ヨハネがヘロデによって殺されたこと」です。その知らせを聞いて、イエス様は「舟に乗ってそこを去り、人里離れた所に退かれ」ました。自分も身の危険を感じたのかもしれません。しかし、群衆はイエス様の後を追って来ました。群衆はイエス様を求めていたのです。イエス様は舟から上がり、そんな「大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされ」ました。イエス様は大きな愛情で「体の癒やし」という奇跡を起こされたのでした。
 夕暮れになり、弟子たちが食べ物の心配をして、イエス様に「群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」と言いました。常識的な判断だと思います。これに対してイエス様は「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」と言います。弟子たちは驚いて「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」と言いました。するとイエス様は「それをここに持って来なさい」と言い、「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂」きました。すると奇跡が起きパンが増えたのです。イエス様はそれを弟子たちに渡し、弟子たちは、それを群衆に与えました。すると、そこにいる全員が食べて満腹しました。「食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほど」とあり、おそらく1万人以上の女性や子どもも入れた家族全員がこの奇跡の恩恵に預かったことが分かります。このような話です。

 今日の箇所で、イエス様が示された教えは何でしょうか? 
 そのことについては、本日の旧約聖書のネヘミヤ記9章が参考になると思います。ネヘミヤはバビロン捕囚後のエルサレム城壁再建を任された総督です。9章ではユダヤの民の代表が、これまでの歴史を振り返り、神様に向かって罪を告白しています。16節以下では、出エジプトの途中、荒れ野で主に聞き従わずエジプトに戻ろうとしたことが記され、それに対して、神様が「憐れみ深」く、「慈しみに溢れ」民を見捨てないお方であることが示されています。20節にこうあります。
「あなたの優れた霊を授けて彼らに悟りを与え 口からマナを取り上げることなく 渇けば水を与えられた。」
 旧約聖書の神様はユダヤの民に聖霊を授け、荒れ野で必要な食料であるマナを天から降らせ、水を与え渇きを癒やされたのです。
 その同じ神様が新約聖書の時代において、群衆を憐れに思い、病気を癒やし、パンを与える奇跡を起こしたのです。ある人が「奇跡は神の愛の結果」と言っていましたが、まさに私たち一人一人を慈しまれる神様の愛が奇跡を起こしたのです。それは「愛の奇跡」です(昔の歌謡曲の題名ではありませんが)。
 この奇跡は、「5つのパンと2匹の魚を分け合う」という、人の目には小さく見える行為を用いて、神様が豊かな恵みの業を成し遂げてくださるのだということを私たちに伝えています。私たちの目には小さくささやかな行為であっても、主イエス様を通して、神様の偉大な愛のみ業に変えられることを示しているのであります。それこそイエス様が示された教えであると考えます。それは、これから受ける聖餐でも表れています。イエス様が5000人の供食でされた「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂」く行為は、聖餐式で司祭が行う聖別の祈りの原形です。私たちは神様の愛のみ業による「主イエス様の体」をいただくのであります。これは大いなるサクラメント(神秘)です。
 
 このような神様の愛の奇跡が与えられることを受け止め、私たちがなすべきことは何でしょうか?
 今日の福音書でイエス様が弟子たちに命じていることを見てみましょう。おなかをすかせた群衆を前にイエス様は「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」とおっしゃり、「パン五つと魚二匹しかありません。」と言う弟子たちに、イエス様は「それをここに持って来なさい」と命じられました。「それをここに持って来なさい」は、ギリシャ語原文を直訳すると、「私に ここに それらを 持って来なさい」となり、「私に」と言う文言が入っています。英語の聖書(NRSV)でも、「Bring them here to me.(それらをここに私に持ってきなさい)」でした。パン5つと魚2匹というわずかな物をイエス様の所に持って行く、そうするとイエス様の御業によって大きな物に変えられたのです。私たちがなすべきこと、それは自分のわずかな小さな物をイエス様の所に持って行くことではないでしょうか?

 そのことで、思い浮かべる言葉があります。それはマザー・テレサのある言葉です。この本にあります(「Remembering Mother Teresa P.56」)。

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「We can do no great things, but small things with great love.(私たちは大きなことはできない。大きな愛で小さなことをするだけである。)」
 今までこの言葉を誤解していたかもしれないと思います。私はこの言葉を、日頃の小さな行いに自分のできる限りの愛を込めることが大切だ、というふうに理解していました。しかし、今回の福音書の学びから、大きな愛は神様の愛であることに気づかされました。私たちがするべきことは小さな行いをイエス様の所に持って行くこと、主に捧げることなのです。そうすると神様の偉大な愛によって奇跡が起きるのです。
「We can do no great things, but small things with great love.」今はこう訳します。「私たちに偉大なことはできない。偉大な愛と一緒に小さなことをするだけである。」

 皆さん、憐れみ深い神様は私たち一人一人をとことん愛しておられます。私たちのできることは小さなことですが、それであきらめるのでなく、その小さなことを主イエス様の所に持って行きましょう。イエス様はそれを偉大なものとしてくださいます。私たちは慈しみ溢れる神様を信じ、日々の生活において忠実に主に仕え、日頃の小さな行いを主に捧げることができるよう、イエス様のいさおによってお祈りしたいと思います。