オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

大斎節第4主日聖餐式 『小さな賜物をイエス様へ』

 本日は大斎節第4主日(バラの主日)。新町の教会で聖餐式を捧げました(高崎は「み言葉の礼拝)。
 聖書箇所は、エフェソの信徒への手紙2:4-10とヨハネによる福音書6:4-15(五千人の給食)。説教では、イエス様は「持っているものの計算」を「よし」とされ、イエス様へ捧げられた小さな賜物を用いられることについて話しました。そして、大斎節の折り返しに当たり「自分はどうあるべきか」問い続け、復活日を迎える準備をするよう勧めました。

      『小さな賜物をイエス様へ』

<説教>
  父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今日は大斎節第4主日です。大斎節の折り返し地点に位置する日曜日で、「バラの主日Rose Sunday」と呼ばれる主日です。この日は祭色をバラ色にし、祭壇に花を飾る教会もあります。(orそこで、大斎節中ですが祭壇にお花が飾られています。)大斎節の中間まで無事に来たことを祝うためにバラの花を教会に持ち寄った慣習からこう言われる説があります。
 福音書ヨハネによる福音書の6章4節以下から取られています。聖書協会共同訳聖書の今日の福音書箇所の小見出しは「五千人に食べ物を与える」となっています。「五千人の供食」とか「五千人の給食」と呼ばれているイエス様の奇跡の場面です。ここから、英国ではこの日をリフレッシュメント・サンデー(気分一新または食事の主日)とも呼んでいます。

 マタイも、マルコも、ルカも、ヨハネも、全部の福音書が、この「イエス様が5千人に食べ物を与えられた」という不思議な出来事、奇跡物語を記しています。 
 これをご覧ください。

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 この写真はガリラヤ湖畔の北西にある「パンと魚の奇跡教会」と呼ばれる教会の祭壇の下のモザイクです。5世紀ごろに作られたものだそうです。今日の福音書の出来事が初代教会で大切にされていたことが分かります。
 この箇所では、およそ5000人の人々が、少年が持っていたパン5つと魚2匹で十分食べ、しかも残ったパン切れを集めると12の籠がいっぱいになったことが述べられています。新共同訳聖書では「男たち」と訳されていましたが、本来は今回の訳のように「人々」であり、当時は女性や子供は人数外でした。全体では、おそらく一万人以上が十分食べ満腹したと考えられます。

 今回はこの箇所に登場する3人の人物にスポットを当てたいと思います。イエス様の弟子のフィリポとアンデレ、そして、パン5つと魚2匹を差し出した少年です。
 まず注目したいのはフィリポです。ヨハネ福音書だけが伝えるイエス様が「フィリポを試みるため」という部分です。
 7節で、フィリポは、「めいめいが少しずつ食べたしても、二百デナリオンのパンでは足りないでしょう」と答えました。
 1デナリオンは当時の1日分の賃金です。仮にそれを1万円とすれば、200デナリオンは200万円です。「1万人の食料を得るためには200万円でも足りないでしょう」というのです。それに対してアンデレは、9節で「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう。」と答えます。二人とも結論は無理だと言っていますが、ここには微妙な違いがあります。
 フィリポははじめから「不足分の計算」をしました。これだけのものがあっても足らないと。アンデレも悲観的ですが、しかし、彼は「持っているものの計算」をしました。ここに5つのパンと2匹の魚がある、と。この視点の違いは、その後の生き方に大きな差を与えていくことになります。「不足分の計算をする」ということは、神様が与えてくれないものに対する関心であり、それは「不平・不満」になっていきます。それに対して、「持っているものの計算をする」とは、そこにあるものに関心を持つということで、それは神様が与えてくださっているものへの関心であり、その思いは「感謝、賛美」へとつながっていくと考えられます。イエス様が受け入れ、用いられたのは、アンデレの視点でした。つまり、「持っているものの計算」であり、現実をプラス思考で見るということです。「200デナリオンでも足りない」ではなく、「5つのパンと2匹の魚がある」と見るということです。イエス様が大切にされたのは後者の視点であり、私たちの目には「わずか」と思われるものでも、イエス様の祝福によって、「人々が十分食べる」という大きな量の給食を実現されたのです。
 そして、その奇跡が起きたのは、少年が「自分の持っていたお弁当を差し出した」からということも忘れはならないと思います。この少年は、「それを差し出したら自分の分がなくなる」という発想ではなく、「わずかなものでも、今、自分の持っているものをイエス様に差し出した」のです。イエス様はその捧げられたものを用いて素晴らしい奇跡を起こされました。捧げられる量が問題ではなく、人々のために「自分の持っているものをイエス様に差し出した」のです。自分に与えられた小さな賜物をイエス様へお捧げしたのです。その思い、その心をイエス様は用いられるのであります。

 もう一つ印象的なのはこの奇跡の後、12節でイエス様が弟子たちに言われた「無駄にならないように(メー・アポレータイ)」という言葉です。実は、この言葉は同じヨハネ福音書の3章16節の有名な御言葉「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」の「一人も滅びないで」と同じ言葉なのです。給食の奇跡にはただ食べ物を備えてくださる、私たちを養ってくださるだけでなく、私たちが誰「一人も滅びないで、永遠の命を得る」ために、「神様はイエス様をこの世に派遣された」という大きな救いのメッセージも込められているのです。
 
 皆さん、イエス様はフィリポの「不足分の計算」ではなく、アンデレの「持っているものの計算」を「よし」とされ、少年が差し出した「5つのパンと2匹の魚」を用いて大きな奇跡をなされました。それは私たちが「永遠の命を得る」ために「神様がイエス様をこの世に派遣された」ことを示すものでもあります。私たちはこの奇跡を通して、人間の必要に応えられる神様を知り、私たち一人一人は「その恵みに対して何をしていくか」を悟りたいと願います。

 今日は大斎節第4主日「バラの主日」です。今日から後半に入るこの大斎の期節を、私たちの必要を満たしてくださる主イエス様への信仰を深め、神様の恵みに対して「自分はどうあるべきか」・「自分にとって小さな賜物とは何か」を問い続け過ごしつつ、復活の喜びを記念する日を迎える準備をして参りたいと思います。

 

ケルティック・ウーマン『You raise me up』に思う

  先主日は、当日の福音書箇所「宮清め」の「立て直す」と訳されたギリシャ語「エゲイロー」が英語では「raise~up」であり、この言葉から思い浮かべる曲『You raise me up』について言及しました。説教では時間の制約やテーマとの関連等からこの曲の歌詞の一部しか述べることができませんでした。今回はケルティック・ウーマンが歌った『You raise me up』全部の歌詞等について思い巡らしたいと思います。
 この箇所のギリシャ語「エゲイロー」を聖書協会共同訳は「立て直す」と訳しましたが、新改訳2017では「よみがえらせる」とあり、よりイエス様の思いを反映した訳となっていました。  
 『You raise me up』を歌ったケルティック・ウーマン(Celtic Woman)は、アイルランド出身の女性で構成される4人組の音楽グループです。私が聞いたのは以下のケルティック・ウーマンのデビューアルバムからです。

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 このアルバムには、オリジナル曲の他、ダニー・ボーイ(ロンドンデリーの歌)やグノーの「アヴェ・マリア」、エンヤの「オリノコ・フロウ」、バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」などが収録されていす。
 前回のブログでは、トリノオリンピックにおける荒川静香のエキシビジョンの映像及び音声を紹介しましたが、今回はケルティック・ウーマンのコンサーーの様子を下のアドレスにアクセスしてご覧いただければと思います。野外の古城の前における可憐な彼女たちの姿を見ながら『You raise me up』の曲を楽しむことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=Yfwlj0gba_k
 
 ところで、「You Raise Me Up」という表現は、英語の聖書(NRSV)では詩編第41章10節において見ることができます。
「But you, O Lord, be gracious to me, and raise me up, that I may repay them. 」
 日本語の聖書(聖書協会共同訳)では詩編第41章11節になります。
「しかし主よ、あなたは私を憐れみ 立ち上がらせてください。私は彼らに報います。」
 これは、病の床にあるダビデが主なる神に祈った言葉です。
 この祈りの中の「raise me up」(私を立ち上がらせてください)の部分が、曲名『You Raise Me Up』の由来と考えられます。
 次に英語歌詞と和訳を示します。

 When I am down and oh my soul, so weary
 When troubles come and my heart burdened be
 Then I am still and wait here in the silence
 Until you come and sit a while with me
 気持ちが沈んで 心も疲れたとき
 困難に見舞われ 心に重荷を背負ったとき
 私は静かに 静寂の中で待つ
 あなたが隣に来て 座ってくれるまで

 You raise me up so I can stand on mountains
 You raise me up to walk on stormy seas
 I am strong when I am on your shoulders
 You raise me up to more than I can be.
 あなたが私を立ち上がらせてくれる だから高い山にも立てる
 あなたが私を立ち上がらせてくれる だから嵐の海も歩ける
 私は強くなれる あなたの肩に身を預け
 あなたが私を立ち上がらせてくれる だから私以上の私になれる

 There is no life no life without its hunger
 Each restless heart beats so imperfectly
 But then you come and I am filled with wonder
 Sometimes I think I glimpse eternity
 飢えない命はない
 心臓は休むことなく とても不完全に鼓動する
 しかし、あなたが現れ 私は驚きで満たされる
 時々私は思う 永遠を垣間見ていると

 You raise me up so I can stand on mountains
 You raise me up to walk on stormy seas
 I am strong when I am on your shoulders
 You raise me up to more than I can be.
 あなたが私を立ち上がらせてくれる だから高い山にも立てる
 あなたが私を立ち上がらせてくれる だから嵐の海も歩ける
 私は強くなれる あなたの肩に身を預け
 あなたが私を立ち上がらせてくれる だから私以上の私になれる

「so I can stand on mountains(だから高い山にも立てる)」は、イエス様が山の上で弟子たちと群衆に語った「山上の説教」の場面を連想させます。
 また、「walk on stormy seas」(嵐の海の上を歩く)は、マタイによる福音書第14章22節以下の「イエス様が湖の上を歩く」の奇跡が関連しているように思われます(海も湖も原語は一緒です)。26節にこうあります。「the disciples saw him walking on the sea(弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て)」

 『You Raise Me Up』の曲では「あなたが私を立ち上がらせてくれる だから高い山にも立てる あなたが私を立ち上がらせてくれる だから嵐の海も歩ける」と繰り返し歌われます。私はここから復活のイエス・キリストと出会った人々のことを思い起こします。「よみがえられたイエス様が共にいてくださるから、私たちは高い山にも立てる、嵐の海も歩ける」と。復活のイエス様と出会ったマリアや弟子たちは、このような心境であったのではないでしょうか。更に歌詞はこう続きます。
「私は強くなれる あなたの肩に身を預け あなたが私を立ち上がらせてくれる だから私以上の私になれる」
 イエス様の悲惨な死を目の当たりにし、絶望のただ中にいた人々は、復活した主イエス様との出会いによって、再び立ち上がりました。「よみがえられたイエス様が共にいてくださるから、私は強くなれる、これまでの私以上の私になれる。」そのような心境になったのではないでしょうか。『You Raise Me Up』を作詞した人も、これら聖書の描写にインスピレーションを受けていたように思うのです。

 『You Raise Me Up』の曲の歌詞及びメロディーは、私には聖歌481番「この世の波風さわぎ」を連想させます。この曲の作詩は松平惟太郎司祭、曲はロンドンデリーの歌です。
 歌詞はこうです。
『1この世の波風さわぎ いざない しげきときも
  悲しみ嘆きの嵐 胸に すさぶときにも
  み前に集い祈れば 悩み去り うきは消ゆ
  いざともに たたえ歌わん 恵み深き 主のみ名 
 2ひとつの望みに生くる はらから(兄弟姉妹) 共に集い
  互いに仕え 睦めば 世になき やすき満ちて
  天なる喜びあふる うるわし 神の群れよ
  いざともに たたえ歌わん 恵み深き 主のみ名』
 
 聖歌481番は次のアドレスで聞くことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=JY2uKbBvZHs
 ほんとによく似ています。原曲と言っていいほどです。アイルランド民謡のメロディーはなんともノスタルジアを感じさせ、親しみ易いものです。荒川静香もそのように考え、『You Raise Me Up』をトリノオリンピックエキシビションで選曲したのかもしれません。

 冒頭述べましたように題名の「You Raise Me Up」は、詩編第41章10(11)節の病の床にあるダビデが主なる神に祈った言葉です。
 私たちも病や苦しみ、どうしようもない困難の中にあるとき「raise me up」(私を立ち上がらせてください)と神に祈りたいと思います。聖歌481番のように「み前に集い祈れば 悩み去り うきは消ゆ」です。
 「よみがえられたイエス様が共にいてくださるから、私は強くなれる、これまでの私以上の私になれる。」のであります。

 

大斎節第3主日聖餐式 『私たちを起き上がらせるイエス様』

 本日は大斎節第3主日。高崎の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、出エジプト記20:1-17とヨハネによる福音書2:13-22。説教では、「宮清め」の箇所から、イエス様が示した十字架・復活の予告について知り、私たちを起き上がらせるイエス様に思いを馳せ、信仰の歩みを深めることができるよう祈り求めました。ここの「建て直す」と訳されている言葉はギリシャ語「エゲイロー」、英語では「raise~up」であり、この言葉から思い浮かべる曲『You raise me up』についても言及しました。

   『私たちを起き上がらせるイエス様』

<説教>
  父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今日は大斎節第3主日です。福音書ヨハネによる福音書の2章13節以下から取られています。聖書協会共同訳聖書によりますと、今日の福音書箇所の小見出しは「神殿から商人を追い出す」となっています。「宮清め」という呼び方で、この聖書の箇所に親しんでこられた方も多いと思います。
 
 この箇所のイエス様は、私たちの知っているイエス様とかなり違う印象があります。15節・16節にこうあります。
「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「それをここから持って行け。私の父の家を商売の家としてはならない。」
 なぜイエス様はこのようにお怒りになられたのでしょうか? そして、その意味するところは何でしょうか?
 私はイエス様は、表面的な神様への献げ物よりも、心から神様に従い、神様に祈ることの方が、献げ物よりも大事だと言いたかったのではないかと思います。今日の旧約聖書出エジプト記から、神様からモーセ十戒が与えられた場面で、十戒の内容が書かれていました。前半部分では、「3 あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」とか「7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」とか「8 安息日を覚えて、これを聖別しなさい。」など神の神聖さ、神に従う信仰の重要性が示されています。イエス様の行動はこの精神にのっとったものであると考えられます。さらに、イエス様は人間の代わりに動物を犠牲として捧げる礼拝を廃止されたのだと考えられます。それは、御自分を十字架の上に犠牲として捧げることを通して、動物の犠牲を廃止したということです。
 
 さて、今日の福音書箇所で不思議な言葉がありました。それは19節です。
『イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」』
 これはどういう意味でしょうか? 
 それには、まず神殿とは何かということを考える必要があると思います。
 神殿とは神様が住まわれる場であり、神様と出会う場でした。聖なる場所であり、宗教生活の中心でした。建築するのに46年もかかった神殿をイエス様は「3日で建て直してみせる」と言われるのです。ここで「建て直す」と訳されている言葉は原語のギリシャ語では「エゲイロー」で、元々の意味は「起こす」であり、「起き上がる」や「復活する」とも訳される言葉です。英語の聖書(NRSV)では、「raise it up」とありました。「三日で建て直す」という表現にはイエス様の体と神殿が重ね合わされており、イエス様の復活を指し示しています。つまり、神殿とはイエス様の体のことであり、別の言い方をすれば、イエス様は復活によって、新しい神殿である教会をうち立てられたのです。
 しかし、弟子たちはこの時点ではこのことを理解できず、イエス様が復活された時、イエス様のこの言葉を思い出し、聖書とイエス様の言葉を信じたのでした。

 ところで、「建て直す」や「復活する」と訳されたギリシャ語「エゲイロー」は英語では「raise~up」でした。この言葉から思い浮かべる曲があります。
 それは『You raise me up』というケルティック・ウーマンの曲で、2006年のトリノオリンピックで金メダルを獲得した荒川静香がそのエキシビジョンで使用した曲です。

 「You raise me up」は直訳すると、「あなたは私を起き上がらせてくれる」という意味です。大切な人が一緒にいてくれることでどれほど強くなれるかを歌ったラブソングですが、この「あなた」は私たちの主イエス・キリストと解釈することができます。
 You raise me up, so I can stand on mountains(あなたは私を起き上がらせてくれる、だから山の上にも立てる)

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 ここでは「あなたが支えてくれるから、私は山の頂にも立つことが出来る」と訳されています。
(以下は和訳のみ)
『あなたが私を起き上がらせてくれるから、嵐の海の上も歩ける
 あなたの支えがあるから、私は強くなれる
 You raise me up to more than I can be(あなたは私を起き上がらせてくれる、私が出来ると思う以上に)

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    ここでは「あなたが支えてくれるから、私は自分以上の自分になれる」と訳されています。

 皆さん、イエス様は「三日で建て直してみせる。In three days I will raise it up. 」とおっしゃいました。それは十字架の三日後に復活することを予告されたのです。そして、復活されたイエス様は、いつも私たちと共におられ、私たちを起き上がらせ支えておられるのであります。

 今日は大斎節第三主日です。大斎節は主イエス様の受難に思いを深める時です。大斎節中になすべき積極的なことは何かと言えば、イエス様の十字架と復活を集中的に黙想することであると言えます。
 今日の福音書箇所である「宮清め」は、十字架につけて殺され、復活したイエス様の体が、この神殿に取って代わることの予告であったとも考えられます。
 私たちはイエス様の十字架の苦しみだけを見るのではなくて、その後の復活の喜びに目を留めたいと思います。そして、いつも私たちと共におられ、私たちを起き上がらせ支えておられるイエス様に思いを馳せ、この大斎節が私たちの信仰の歩みをより深める期節となるように、祈り求めたいと思います。


 *以下のアドレスで2006年のトリノオリンピックにおける荒川静香のエキシビジョンを見る(聞く)ことが出来ます。
   https://www.youtube.com/watch?v=y_74NLQG9tw

 

「T. S. エリオットの詩と信仰(2)」

 前回、T. S. エリオットの詩、主に「聖灰水曜日(灰の水曜日)」と彼の信仰について思い巡らしました。この作品は英国国教会に転会した3年後の作品で、信仰の道を歩む決意を感じさせる宗教詩であると結論づけました。今回は、彼の詩集「キャッツ - ポッサムおじさんの猫とつき合う法」(The Old Possum's Book of Practical Cats)を取り上げたいと思います。この猫詩集は、エリオットが自分の勤める出版社の社員の子供たちのために書いたもので、1939年、彼が51歳との時に出版されました。
 私が読んだのは1995年に池田雅之訳で出版された「ちくま文庫」版です。

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 詩集「ポッサムおじさんの猫とつき合う法」 は世界中でロングランを続けるミュージカル「キャッツ」の原作です。この詩はエドワード・リアへの関心から書かれたノンセンス詩で、エリオット没後にミュージカル『キャッツ』に翻案されて人気を博することになりました。
 ポッサムはオポッサムのことで、死んだ振りをすることから「臆病者」という意味があります。エリオットはエズラ・パウンドの詩に“Possum”という渾名で登場することが多く、ポッサムおじさんとは自身の渾名にちなんだタイトルです。
 この猫詩集『キャッツ』は15篇の詩から成っています。特に目をひくのが、登場する猫たちの一風変わった名前、例えば「あまのじゃく猫ラム・タム・タガー」「猫の魔術師ミストフェリーズ」「鉄道猫スキンブルシャンクス」などです。偉大なるノンセンス詩人・エリオットでなければ、考えもつかない名前ばかりです。これらの名前へのこだわりからエリオットがいかに猫を愛していたかが伝わってきます。私が注目したのは「長老猫デュートロノミー」です。長生きの長老猫で、9人の女房の死を看取ったとも、99人の女房の死を看取ったとも記されています。名前は旧約聖書申命記(Book of Deuteronomy)から取られており、この書はモーセの説教と律法から成っていると考えられてきました。「長老猫デュートロノミー」は牧師館の石塀に座って日向ぼっこをしている様子がこの詩に描かれています。まるで、主の庭に休らうことが真の安らぎであるかのようです。エリオットは自身の信仰観を反映させ「長老猫デュートロノミー」を登場させたと考えます。
 ただ、この詩集を日本語で読んでみると、翻訳の限界かナンセンス詩の言い回しや言葉遊び等が、なかなか分かりづらく、語られている内容も当時の英国社会を反映しているので、その背景を知らないと理解に苦しむところがあります。

 この詩集から生まれたミュージカル「キャッツ」も、テーマが分かりづらいと感じている人が多いのではないでしょうか? 私もかつて劇団四季のキャッツシアターで浅利慶太演出の日本版「キャッツ」を見て、歌や踊りを楽しんだ記憶はありますが、何が言いたかったのかはぴんときませんでした。しかし、今回、最近映画化された「キャッツ」を見て、少し分かったように思います。コロナの影響で映画館に行けなかったので、DVDで見ました。

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 劇団四季の「キャッツ」のホームページにミュージカル「キャッツ」が完成するまでの経緯等が記されていました。それによりますと、1972年に、ロンドン生まれの作曲家アンドリュー・ロイド=ウェバーがアメリカへと向かう途中、空港の売店でエリオットの詩集『Old Possum's Book of Practical Cats(ポッサムおじさんの猫とつき合う法)』(通称『キャッツ』)を何気なく手に取ったことが端緒だったようです。彼は子供の頃から慣れ親しんでいだこの詩集を改めて読み返し、猫たちが飛び跳ねて踊るような躍動感溢れるこの作品に、たちまち魅了されたのでした。
 この猫詩集『キャッツ』は15篇の詩から成っていますが、ロイド=ウェバーは最後の「門番猫モーガン氏の自己紹介」を除いて、14篇の詩のすべてをミュージカルの中で忠実に再現しました。そのため、このミュージカルは、まず詩に曲がつき、最後にストーリーとテーマがつけられるという変則的な手順で作られることになったそうです。

 原作の猫たちを一匹一匹見ていくと、あることに気付きました。それはミュージカル『キャッツ』の代名詞ともいえるナンバー『メモリー』を歌う「娼婦猫グリザベラ」が、原作には存在していないことでした。『メモリー』という歌も、原作にはありません。では、「グリザベラ」はどこから来たのでしょうか? それはヴァレリー夫人がロイド=ウェバーに持ってきたエリオットの未発表の「娼婦猫グリザベラ」というタイトルの付いた、7・8行ほどの未完の詩からとのことでした。
 ミュージカル『キャッツ』では、「グリザベラ」は「長老猫デュートロノミー」によって、一年に一度天に昇り永遠の生命を得る猫に選ばれました。しかし、選ばれた理由については明確に示されていません。「長老猫デュートロノミー」が歌う「幸福の姿」(原題は『幸福の瞬間The Moments of Happiness』)を境に、「グリザベラ」は徐々に生まれ変わっていきます。

 暗い過去を背負い、救済を願うこの猫には、私は“罪深い女”マグダラのマリアを思い浮かべます。このことについて少し思い巡らします。
 ルカによる福音書7章 37-38節にこうあります。
『この町に一人の罪深い女がいた。イエスファリサイ派の人の家で食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。』
 イエス様はこの女性のされるままになされました。
 この女性はヨハネ8章の姦淫の女とも重なります。イエス様はこの女性に解放と新生をもたらしたのでした。
 そして、復活のイエス様に最初に出会ったのがマグダラのマリアでした。ヨハネによる福音書20章16節に感動的なシーンが記されています。
『イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。』
 また、私は長血を患っていた女性のことも思い浮かべます。ルカによる福音書8章 44節はこうです。
『この女が後ろから近寄って、イエスの衣の裾に触れると、たちまち出血が止まった。』
 この女性はイエス様に触れることによって癒やされたのです。

「触れる(touch)」ということでは、『キャッツ』で一番有名な歌『メモリー』の中に印象的な歌詞があります。最後の節です。

 Touch me!
 It''s so easy to leave me
 All alone with my memory
 Of my days in the sun
 If you touch me,
 you''ll understand what happiness is
 Look, a new day has begun.

 私に触れて!
 私を見捨てるのは簡単なこと
 私は独りきり
 日の光の中にいた日々の思い出とともに
 私に触れてくれるなら
 幸せとは何か、わかるはず
 見て、新しい1日がはじまる

  この節から、「主イエス様に触れていただくことで、本当の幸せを実感し、新しい人生が始まる」と私は解釈しました。言い換えれば、「神とつながることにより救われ新たに生まれることができる」と言っているように思います。

 ミュージカル『キャッツ』はT.S.エリオットの原詩を忠実に用いながら、救済と新生というテーマを扱っているように思われます。猫たちに託した人間の救いと新たに生まれることの物語といえるのではないでしょうか。その基にはエリオットの宗教性、ことに「贖いと救い」を求める信仰があったと考えます。

 ミュージカル『キャッツ』では「娼婦猫グリザベラ」は他の20数匹の誇り高く生きるジェリクル・キャッツと私たち観客の祈りの力によって支えられて天上に昇ります。それは、「グリザベラ」だけでなく他の猫も、そして私たちも、主イエス様によって救われ新たに生まれることができることを示しているように思うのです。

 

大斎節第2主日聖餐式 『キリストの後に従う』

 本日は大斎節第2主日。午前高崎、午後新町の教会で聖餐式を捧げました。
聖書箇所は、ローマの信徒への手紙8:31-39とマルコによる福音書8:31-38。説教では、マルコ8:34を中心聖句として思い巡らし、「十字架を負うこと」や「主イエスの後に従うこと」の意味について述べました。映画『天使にラヴソングを(Sister Act)』の中の曲「I Will Follow Him」の歌詞にも言及しました。

   『キリストの後に従う』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今日は教会暦では大斎節第二主日です。今年は大斎節は2月17日(水)から始まりましたので、10日ほど過ぎたことになります。 
 今日の福音書はマルコによる福音書8章31-38節で、聖書協会共同訳聖書の小見出しは「イエス、死と復活を予告する」です。
 私は今日の箇所の中心聖句は34節だと思いました。今日はこの御言葉を中心に思い巡らしてみたいと思います。こうあります。
『それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。』

 イエス様は弟子たちに加えて群衆に、つまり私たちに、「自分の十字架を負って私に従いなさい」と語られます。しかも「自分を捨てて、十字架を負いなさい」と、とても厳しい言葉として響いてきます。
 新共同訳聖書では「自分の十字架を背負って」とあり、日本語でも「十字架を背負う」と言います。一般的には「自分の持って生まれたものや生きているうちに与えられたものを日々背負って生きていく」ことなどを言うと思います、広辞苑には「罪の意識や悲しみを身に受け持つ」とありました。
「私は、この十字架を一生背負い続けます」というような言葉を聞くこともあります。イエス様がここで言っていることもこのようなことなのでしょうか?

 この箇所をギリシャ語原文から直訳するとこうなります。
「そして、群衆を彼の弟子たちと共に呼び寄せて、彼は彼らに言った。
 もし誰かが私の後ろに従うことを欲するなら、彼は彼自身を否定しなさい。
 そして、彼は彼の十字架を運びなさい。そして彼は私に従いなさい」。

 この聖句を理解するには、当時の十字架刑について知る必要があります。
 十字架刑は、ギリシア人及びローマ人が発明した刑です。元々は反乱した奴隷に限って用いられ、その後すべての犯罪者に適応されました。十字架刑は、刑を受ける人が十字架を担いで行きます。その向かう途中で群衆の嘲りを受けます。この刑の本来意味していることは、かつて反乱した者が、今は「ローマ法に従順に服している」という姿を見せることでした。
 「自分の十字架」とは、イエス様と同じような苦しみの十字架を担げという意味ではありません。「自分の十字架」とは、比喩的表現で、「自分の思いと神の思いが交差する」時、自分の思いを捨てて(後ろにして)、神の思いに従順になりなさいという勧めです。
 つまり、十字架を運ぶ、十字架を負うとは「従順の勧め」です。十字架刑が意味しているのは、ローマ法への従順、つまり、「支配している権威への従順」です。イエス様は、父なる神に従順に歩まれました。どこまで従順だったかというと、「死に至るまで」です。そのように、私たちも、神様の御心に従順になる必要があるのです。自分の思いを優先させたい、自分の欲望を満たしたいと思う時に、そうではなくて、神様の御心に従順になること、それが「自分の十字架を負う」という意味なのです。
 ですから「自分の十字架を負う」とは「自分の問題、悩み、傷等を背負って生きる」ということではありません。それらは、自分を捨てる時に主にお委ねしました。そうではなく、「主に従う」ということです。言い換えれば「神様の御心に従う」ということが、「自分の十字架を負う」ということであると思います。
 そして、もうひとつ、この御言葉で重要なところがあります。
 イエス様が言われた「私の後に従いたい者は」というところです。これは、ギリシヤ語で「オピソー・ムー」とあり、「私の後ろに」という意味です。英語の聖書では「after me」とありました。
 この個所のすぐ直前に、こんなやり取りがありました。イエス様が「排斥され殺され三日後に復活する」ことを弟子たちにお話になり、弟子たちはそれを理解できずペトロがイエス様をいさめ、それに対しイエス様がペトロを叱って「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。」と言われたところです。ここで「引き下がれ」と訳されている言葉も、実は、「オピソー・ムー」なのです。「私の後ろに行け」なのです。
 イエス様の後ろに行く。その反対は、「イエス様の前に行く」ことです。それはイエス様が望まれたことではありません。イエス様が望まれているのは「イエス様の後ろに行く」こと、つまり「イエス様の後に従う」ことです。
 では、「イエス様の後に従う」とは具体的にはどういうことでしょうか? それは「日々祈り、御言葉をよく聞き、神様を信じて生きる」ということだと思います。今日のように礼拝に参列して、主なる神様をほめたたえることです。信仰生活を続けていくことが、「十字架を負うこと=イエス様の後に従う」ことと言えます。

 「主イエス様の後に従う」ことで、思い浮かべる音楽があります。それは、「I Will Follow Him」という曲で、映画『天使にラヴソングを(Sister Act)』のラストでシスターたちの聖歌隊が歌った曲です。この映画をご覧になった方はいますか?

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 この歌は元はペギー・マーチのヒット曲ですが、映画版の歌詞では「彼(him)」が大文字の「Him」になっていますので、この場合の彼は主なる神様のことです。
 出だしはこうです 。 
『I will follow him    主についていく
 Follow him wherever he may go  主の行かれる所ならどこへでも

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(この後は和訳だけ)
 『この先ずっと主のみもとを何があっても離れない 主こそ我が運命
  主についていく 心触れた日から分かっていた
  どんな深い海も どんな高い山も 主の愛から引き離せはしない
  主についていく   主の行かれる所はどこへでも
  いつも主と共に 主の愛と共に
 どこまでもついていく どこまでもついていく
 主を愛している 主についていく
 真実の愛、主はずっと変わらない真実の愛。
 今も、そして永遠に 永遠に!』

 皆さん、主イエス様は私たちが「イエス様の後に従う」ことを求めておられます。クリスチャンとは「キリストに従う者」という意味です。それがイエス様の本当の弟子です。「十字架を負うとはイエス様の後に従う」こと、信仰生活を続けていくことです。大斎節のこの期間、あらためて自分を見つめ直し、生涯イエス様が求めておられる生き方、イエス様の後に従って歩んでいく信仰生活を送ることができるよう祈り求めて参りたいと思います。


 * 映画『天使にラヴソングを(Sister Act)』の中の曲「I Will Follow Him」は下のアドレスから見る(聞く)ことができます。
   https://www.youtube.com/watch?v=B-4TzLBWNHE

「T. S. エリオットの詩と信仰(1)」

 今年は2月17日(水)が大斎始日で、高崎の教会で「灰の水曜日」の礼拝を捧げました。私は教育公務員でしたので、平日の礼拝にはほとんど出たことがありませんでした。ただ、「灰の水曜日」の礼拝は、東京出張の帰りに寄った四谷の聖イグナチオ教会で「灰の水曜日」の夕の礼拝があり、額に灰の十字架をつけてもらったことがありました。四谷駅で額に灰の十字架をつけた人を見て「私もそうだった」と気づいたことを覚えています。退職してから神学校の研修で行った韓国の教会や、神学校を出てから赴任した榛名の教会で「灰の水曜日」の礼拝に参列しました。
 「灰の水曜日」については馴染みが薄かったのですが、信者になる前から名前だけは知っていました。それは、T.S.エリオットの「灰の水曜日」の詩を学生時代に読んでいたからです。私が親しんでいたのは次の「英米詩集」(白鳳社)に収められていた「聖灰(かい)水曜日」でした。

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 T.S.エリオットは米国に生れ英国に渡り、1927年6月にユニテリアンから英国国教会聖公会)に転会し、同年11月に英国の市民権を取得した詩人です。1922年発表の詩「荒地」で当時の英米の詩壇に衝撃を与えました。「荒地」は第1次世界大戦後の欧州の精神風土を表している言われ、我が国の詩壇にも大きな影響を与えました。第2次大戦中の1943年に宗教詩の集大成と言われる「四つの四重奏」を刊行し、大戦後、1948年にノーベル文学賞を受賞しました。ミュージカル「キャッツ」の原作者でもあります。
 これから数回にわたり「T.S.エリオットの詩と信仰」について記そうと思います。彼の詩の変遷を追うことは、一人のキリスト者の信仰の歩みを巡る旅でもあると考えます。
 今回は、彼の聖公会(アングロ・カトリック)に転会直後の1930年に発表された「聖灰水曜日(灰の水曜日)」について思い巡らします。
 この詩は「アングロ・カトリックの信仰を得たエリオットが、大斎節(四旬節)の最初の水曜日に神の前で悔い改め、霊魂の浄化と救済を祈る詩である(『四つの四重奏』(岩波文庫)の「灰の水曜日」の解説から)」と言われています。

 「聖灰水曜日(灰の水曜日)」は6つの章から成り立っていますが、第1章の冒頭の詩句はこうです。前述した「英米詩集」(白鳳社)の上田保訳で記します。
 「聖灰水曜日」    T.S.エリオット

 わたしはふたたび、ふりかえることことを願わないので
 わたしは願わないので
 わたしはふりかえることことを願わないので
 この人の才や、かの人の能力をうらやんで
 かかるものを、もはや争って手にいれようとはしない
 (どうして 年おいた鷲が翼をはる必要があろう)
 どうして、世の常の力が消えうせたことを
 なげく必要があろう。

 原文はこうです。
 Ash Wednesday    T.S.Eliot

 Because I do not hope to turn again
 Because I do not hope
 Because I do not hope to turn
 Desiring this man’s gift and that man’s scope
 I no longer strive to strive towards such things
  (Why should the aged eagle stretch its wings?)
 Why should I mourn
 The vanished power of the usual reign?

 この詩のキーワードは、turnであると考えられます。「聖灰水曜日(灰の水曜日)」については、次の本『「灰の水曜日」研究(福田陸太郎・森山泰夫共著)』から多くの示唆を得ました。

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 この本によれば、この詩の冒頭は、カヴァルカンティ(13-14世紀のイタリアの詩人。ダンテの第一の友)の詩‘Ballata’から採ったものとのことですが、カヴァルカンティの詩の‘return’を‘trurn(過去を振り返る)’にもじったことが記されています。エリオットの頭の最初には‘return’という言葉があったのです。これは大斎始日(灰の水曜日)の礼拝の中で、額に灰の十字架のしるしをするときの言葉「あなたはちりだから、ちりに帰らなければならないことを覚えなさい(remember you are dust, and to dust we shall return)」を思い浮かべます。
 エリオットの詩の冒頭では、振り返る(trurn)ことを望んでいない、神に立ち帰ること(return)の望みを持っていないことが記されていますが、詩が進むにつれ気持ちの変化が表れてきます。第1章の終わりは次の言葉で締めくくられています。

 われら罪びとのため、今も、またわれら死にのぞむいまわの時も祈りたまえ
 われらのため、今も、またわれら死にのぞむいまわの時も祈りたまえ
 Pray for us sinners now and at the hour of our death
 Pray for us now and at the hour of our death.

  ここでは「アヴェ・マリア」の一節がそのまま引用されています。
 章が進むにつれて信仰的な詩句が多くなります。第3章の最後はこうです。

 主よ、わたしはとるにたりないものです
 主よ、わたしはとるにたりないものです
 しかしお言葉をかけて下さい。
 Lord, I am not worthy
 Lord, I am not worthy
 but speak the word only.

 第5章の冒頭にこうあります。
 
 失われた言葉が失われ、力つきた言葉が力つき
 聞かれない、語られない言葉が
 語られず、聞かれないとしても、
 まだ、語られない言葉があり、聞かれない御言葉、
 言葉のない言葉、この世のうちの、そして
 この世のための御言葉がある。
 光は闇にさからって、
 静かでないこの世は、あいかわらず 
 静かな御言葉を中心に、逆まいていた。
 If the lost word is lost, if the spent word is spent
 If the unheard, unspoken
 Word is unspoken, unheard;
 Still is the unspoken word, the Word unheard,
 The Word without a word, the Word within
 The world and for the world;
 And the light shone in darkness and
 Against the Word the unstilled world still whirled
 About the centre of the silent Word.

 ここの「言葉(The Word)」は「ロゴス」であるキリストを表していると考えられます。「光は闇にさからって(And the light shone in darkness)」はヨハネによる福音書1:5が下地になっています。
 第6章の最後はこうで、この詩を締めくくっています。
 
 主の御心のなかにわれらの安らぎを
 これらの岩のあいだにあっても
 修道女よ、母よ
 河の精よ、海の心よ
 わたしを手放したもうな
 わが叫びを主のもとへとどかしめたまえ
 Even among these rocks,
 Our peace in His will
 And even among these rocks
 Sister, mother
 And spirit of the river, spirit of the sea,
 Suffer me not to be separated
 And let my cry come unto Thee.

 前述した『「灰の水曜日」研究』によれば、「主の御心のなかにわれらの安らぎ(Our peace in His will )」はダンテの「天国篇」第3歌のピッカルダ(13世紀イタリアの修道女)の言葉から採られたとのことです。これは「聖者がそれぞれ特有な天を与えられて、調和と秩序のうちにそこに暮らしている状態の説明」とありました。
 ここでは、「修道女よ、母よ(Sister, mother) 河の精よ、海の心よ (And spirit of the river, spirit of the sea,)」と仲立ちの女性等に呼びかけ、「わが叫びを主のもとへとどかしめたまえ(And let my cry come unto Thee.)」と最終的には神に祈願しています。純粋なキリスト教信仰からすれば、「河の精」や「海の心」に祈りの仲立ちを願うのは首を傾げざるを得ませんが、詩の最後を神への祈りの言葉で締めくくり、結果的には神に立ち帰り(return)、「灰の水曜日(Ash Wednesday)」と題した詩の意図に気づかされます。
 
 「灰の水曜日(Ash Wednesday)」(1930年)は「荒地(The Waste Land)」(1922年)のテーマ「追憶と欲望」と共通する面もあり、それに「浄罪の祈り」が加わっています。神の絶対的な愛によって救われることを祈願し、それと共に崇高な美を慕い求めてもいます。「聖灰水曜日(灰の水曜日)」は、エリオットが1927年にアングロ・カトリックに転会した3年後の作品で、信仰的には中途半端な面も感じますが、象徴性と音楽性に富み、「祈りの道の厳しさに耐えていこう」との決意を感じさせる宗教詩であると言えるように思います。

 

大斎節第1主日聖餐式 『荒れ野で支えてくださる神』

 本日は大斎節第1主日。高崎の教会で聖餐式を捧げました。礼拝後、堅信受領者総会があり、報告や予算案等が承認されました。礼拝の聖書箇所は、ペトロの手紙一 3:18-22とマルコによる福音書 1:9-13 。説教では、大斎節の始まりに当たり、荒れ野で神が支えてくださることを理解し、イエス様を模範とし、祈りを捧げ、信仰を持ち続けていくよう祈り求めました。私自身の大斎節の目標や具体策、眞野司祭作成の「レント・カレンダー」の活用法にも言及しました。

   『荒れ野で支えてくださる神』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今日は教会暦では大斎節第一主日です。大斎節はカトリックでは四旬節、英語ではレントといいます。大斎節とは何でしょう? 大斎節というのは、灰の水曜日(今年は先週の水曜日、2月17日)から復活日までの40日間(プラスその間の主日の数、実際は46日間)を言います。四旬節という言い方は40日間のことを意味します。大斎始日の礼拝でも少しお話ししましたが、大斎節は、イエス様の「荒れ野での試練」に倣い、節制(欲を抑えて慎むこと)と克己(己に克つこと)に努め、自分を見つめ直すという悔い改めと反省の期間という意味があります。
 受付に今年の「レント・カレンダー」と呼ばれるものを置きました。これは中部教区の眞野玄範司祭さんが作成されたものです。

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 これを見ても分かるとおり、復活日(今年は4月4日)の前日の聖土曜日までがレントで、大斎節はイースター(復活日)を迎える準備の時という意味合いがあります。

 大斎節第一主日では、毎年イエス様の荒れ野での試練、一般に「荒れ野の誘惑」と呼ばれる福音書の箇所が取られています。マタイやルカは誘惑の内容まで詳しく伝えますが、マルコはいたって簡潔にこの場面を記しています。
 今日の福音書の内容は、2つの部分からなっています。聖書協会共同訳聖書の小見出しは「イエス、洗礼を受ける」と「試みを受ける」となっています。本日は大斎節第一主日ですので後半について考えていきたいと思います。
 
 この箇所はこう述べられています。
「それからすぐに、霊はイエスを荒れ野に追いやった。 イエスは四十日間荒れ野にいて、サタンの試みを受け、また、野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた。」
 「荒れ野」というのは、聖書の中で特別な場所です。試練の場所であり、誘惑の場所であり、しかし、そこは神様と出会う特別な場所です。「それからすぐに、霊はイエスを荒れ野に追いやった。」とあります。「追いやった」という言葉は、 この前の新共同訳では「送りだした」と訳されていましたが、原語のギリシャ語では「追い出す」とか「投げ込んだ」とか、そういう強い力を表す言葉で、今回の聖書協会共同訳はかなり原文に忠実に訳しています。そのとき、霊はイエス様を、試練の場、誘惑の場、しかし、神様との出会いの場に投げ込んだのです。
 霊は、洗礼の時イエス様に降り、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者である」と宣言された霊です。それは、三位一体の第三位格である「聖霊」です。父なる神様からイエス様に降ってこられたその霊が、今度はイエス様を「荒れ野」に追いやったのです。
 ここでは「試みを受ける」(原語のギリシャ語ではペイラゾー)という言葉に注目します。これは「ペイラスモス」の動詞形です。それをギリシャ語辞典で引くと「試み・誘惑・試練」とありました。同じ言葉がサタンから見れば「誘惑」であり、イエス様から見れば「試練」となります。「誘惑」は神様から離すことであり、「試練」は神様に近づくことです。それが同じ言葉なのです。どちらから見るかで意味が変わるのです。
 
 荒れ野は神的な力と悪魔的な力とが共存する場所であり、その意味で私たちが生きる日常の象徴とも言えます。イエス様が荒れ野で試みを受けたのは、同じ「荒れ野」に生きる私たちを励まし、慰めるためです。イエス様と共に「荒れ野」を生きるとき、試みは神様への信仰を告白する試練に変わります。 
 ちなみに、かつての「主の祈り」の文語訳は「われらを試みにあわせず」となっており、新共同訳のマタイ6章13節でも「わたしたちを誘惑に遭(あ)わせず」と訳されています。しかし、試みや誘惑は必ずあるものなので、「試みや誘惑にあわせないでください」と祈ることはどうなのかと考えます。現行の「主の祈り」では「わたしたちを誘惑に陥らせず」となっていて、「誘惑があってもそこに陥ることのないように守ってください」の意味と理解します。この方が、今日の箇所のイメージにつながると考えます。
  「また、野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた。」とありますが、どういうことなのでしょう?
 イエス様の荒れ野での生活は野獣と隣り合わせであり、同時に神の使いとともに過ごす日々だったのです。野獣とともに、天使とともに生きる。イエス様が試みに直面した場とはそのような場でした。しかも天使たちが仕えていた。つまり神の霊の働きはイエス様を支え続けていたのです。これは私たちの生きる場でも同様であります。
 
 冒頭お話しましたように、大斎節は、イエス様の「荒れ野での試練」に倣い、節制と克己に努め、自分を見つめ直すという意味があります。そして、大斎節には、何か目標を決め自分にとって少しきつい試練を与えることをよくします。毎日聖書を読むとか、普段なかなか読めない神学書を精読するとか、誰かを覚えて祈り手紙やメールを送るとか、等です。私は、今年は「祈りを深める」ことを目標に、これらの本を精読することにしました。

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 O・ハレスビーの「祈りの世界」や古今東西の祈りを集めた「祈りのポシェット」です。前者は以前は「祈り」と題されていた本で、私が信仰に入った頃、今から40年ほど前に購入し、最初だけ読んで本棚にしまっていたものです。ハレスビーはノルウェー神学者で「祈り」は英文から訳されたものですが、「祈りの世界」はノルウェー語からの直訳です。この2つを読み比べることで、この本を精読したいと考えました。そして、祈りの実践例として「祈りのポシェット」を丁寧に読みたいと思います。
 説教の冒頭で紹介したレント・カレンダーにはいろいろな活用法がありますが、私は、目標と具体策を記入し、これらの本を精読できたときに色鉛筆で塗るようにしました。

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 皆さんも、この大斎節に何か目標と具体策を決め、実践し、レント・カレンダーでチェックしてみてはいかがでしょうか?

 皆さん、私たちの人生は荒れ野のようです。いろいろな誘惑や試練があります。そこでも神様が支えてくださいますから、主イエス様にならい主の栄光を現すことができるよう、祈りを献げたいと願います。
  大斎節の始まりに当たり、これからイースターまでの約40日間、あらためて自分を見つめ直し、節制と克己に努め、信仰を持ち続けることができるよう祈り求めて参りたいと思います。